AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

実在するものは脅かされない

みなさん、こんにちは。

昨日は瞑想会へのご参加ありがとうございました。

ご検討くださったり、気にかけてくださるみなさん、本当にありがとうございます。

みなさんのおかげで、意味と価値のある会にさせていただいています。

本当にしあわせだなあと思います。

 

信州諏訪・岡谷市は今日も花曇りで花冷えですが、うちのお庭の花桃ちゃんもようやく八分咲きというところです。

去年の春に、花桃というものにじかに出会ったのですが、その可憐さに惚れました。

一つの木に三色、四種の模様の花を咲かせています。

写真はうまく取れたらインスタとFBに載せますね^^

 

瞑想すると、私たちは内なる真理につながります。

いっぺんにずばっと、というわけではありませんが、真理の一滴は、私たちの意識に深く大きな波紋を投げかけます。

 

その波紋は、真理にそぐわない幻想を、その人の受け入れられる変化の度合いに応じて揺さぶり、押し出してくれます。

感情や感覚、それにまつわるストーリーが思い出されたり、もっと無意識的な記憶ーこれ誰の記憶?というものー集合的な記憶が出てくることもあります。

つまっていたものが押し出され、スペースが空くように感じられるかもしれません。(浄化)

また相反する考えの対立ー葛藤に対して明晰な答え、つまり別の見方がひらめきのように得られることもあります。(気づき)

それから内側から愛の手が差し伸べられ、傷や痛みが包み込まれるような体験もあります。

 

そのすべては、分離していたものがひとつにつながるような体験です。(癒し)

 

対処すべき問題が羅列され、順番に対処してつぶしていくというような日常から、問題の根がみつかり、その根をただ手放すことで、日常の質が変容し、目的が入れ替えられます。

 

そうすると私たちが無意識に付与していたものごとへの価値は一変します。

 

例えば好きなものや好ましい出来事に囲まれて生きていれば幸せかもしれません。

でも好き嫌いは自我の知覚が決めていますから、その好きは共有されはしません。

同じ趣味の人同士が集まればいいでしょう、と言っても、好きな対象の、本当は何が好きなのかは実はそれぞれ違います。

 

どこまで行っても自我の知覚は共有されません。

 

なんだか、分離のままずっと幸せに生きていくための術を世の中は求めているように思います。

個々が個々の目的を持ち、それを維持して獲得していけば、みんな幸せなんでしょ、というような流れです。

 

それを取り上げられることをとても多くの人が恐れているように思います。

「それくらいの楽しみ、取っておいても罪はないでしょう」というような。

或いは、「悟ったら、これを楽しめなくなるんでしょう?」とか。

 

奇跡講座はこの手の自我の言い分について滾々と言い当てていきます。

そして全体を読み込めば読み込むほど、それらは無駄な抵抗です。

私たちが思いつくあらゆる疑惑にすべて答えがあります。

 

真理はすべての人に完全に適用できるから、真理なのです。

すべての人が救われ、幸せになる道が明かされています。

 

今ちょっとゆとりがある人も、今待ったなしに苦しんでいる人も、同じ次元にいます。

すべての人に同じ目的を見たとき、自分が救われるのです。

 

昨日の瞑想会で誘導しながら、先日書いたマインドフルネス瞑想との分岐点、みたいなものを体験した気がしました。

 

私たちの内には、圧倒的な善、圧倒的な愛、圧倒的な光があります。

それは対極を持たないものです。

無限の、一なるものです。

それだけが恒久的な平安をもたらします。

 

それは、求めて向かいさえすれば、向こうからやってきてくれます。

私たちの間違いだらけの認識に訂正を受け入れる意欲さえ持てば、圧倒的な真実ですべてを包み込んでくれるちからです。

 

その大いなる愛にモンキーマインドを差し出せば、心は瞬時に変わることができます。

でも、自分のちからでモンキーマインドを調教しようとすれば、サルがちょっと仮眠したり、寝た子を起こしたり、サルに騙されたりします。

調教じゃなくて観察だと言われるかもしれませんが、サルだけを見ていたらサルを実在させることになります。

それは静かに見えても、終わりなき戦いです。

 

一なるものは、サルはあなた自身でないばかりか、サルは存在していないと言います。

そうしてその光に照らすとそれは本当に無いということを心に教えてくれます。

 

きっと、やってみたら誰でもわかることです。

 

いなくなったはずのサルは、日常の時間に戻るとけろっとしてまた暴れています。

でも、変性意識で認識された真実は深く心に刻まれますから、

「ちょっと待てよ、おまえ、いないはずだよね?」

と、我に返ることは容易になります。

我に返るとサルは消えてしまいます。

そうしてサルがうろうろしていても、もはやそれは害獣ですらない、単なる景色か残像、ということになります。

 

実在するサルをみつめ、調教し、日常に戻ればまたサルをみつけ、瞑想してそのサルをやっつける。

もちろん一時的効果はあるけどそこに喜びがない、という訴えをたくさんうかがってきました。

一時的効果は、この世的成功や夢の実現と言われるものも含みます。

その時の喜びはやはり一時的です。

 

平安、至福、常に新鮮な喜び。

世界を赦さないままその状態だけを求めるなら、自分に嘘を強いて嘘で固めることになります。

暴れるサルを何匹も、何万引きも身の内に引き受け、墓場まで連れていくようなものです。

死だけが解決となります。
でも、そのやり方は無効です。

 

神の子は不完全なものに決して満足しない。

それが答えのように思います。

幻想に完全を求めることはできません。

あるところにそれを探せ。

はい、その通りです。

 

◎5月のオンライン瞑想会は5日、19日日曜日午前10時からです。

◎真理に基づくカウンセリング、ヒプノセラピー、エネルギーヒーリング、講座など、セッションは随時承ります。

◎すべてのセッションはオンラインでもお受けいただけます。

 

感謝とともに

AZU拝

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]

明日の瞑想会と、瞑想についての考察

みなさん、こんにちは。

ここ周辺で最も遅い岡谷の桜も時期を終えて、花桃ちゃんが花盛りを迎えています。

ここからは花盛りラッシュです。

本当にいいところなので、そのうちまとめてレポートを書きたいと思っています。

 

前回みなさんにお願いして無事開催できましたオンライン瞑想会ですが、明日21日㈰が開催日となっています。

 

瞑想と言えば世の中ではマインドフルネスが主流なのでしょうか。

ある時期からあっという間に広まった気がします。

最近のことのように思いますが、発祥は1960年代アメリカで、上座部仏教ミャンマー、タイ、スリランカに現存する)からの使徒が伝えたものだそうです。

ということは、ヴィパサナ瞑想が由来です。

 

セッションを通して、「ヴィパサナ行ってきました。」「マインドフルネスやってます。」という声はたくさんうかがってきました。

でも自分はその頃には、SRF(パラマハンサ・ヨガナンダの協会)に出会ってクリアヨガを学び、瞑想していましたので、興味がわきませんでした。

とても満たされていて、まったく必要を感じなかったのです。

 

私が主催する瞑想会はクリヤヨガ(ヨガは瞑想を含む神との合一のための哲学です)は行っていませんが、(SRFから直接学ぶことがどなたにでもできます)真理の骨組みや取り組み方はヨガナンダさんの教えと奇跡講座に則っています。(非二元、一元論、ノンデュアリティ。)

 

お釈迦様の教えに厳密に則っているという上座部仏教の行法であるヴィパサナ瞑想と、一元論における瞑想はどこがどう違うのかな、ということを最近学んでいます。

 

私は自分のような、心の平安と真逆のはるか向こうからここまでを驚異的な最短距離でここまで来られたことが奇跡ちゅうの奇跡と認識していて、ぜひとも望んでおられるみなさんのお手伝いをしたいと切望しています。

 

最近一つ気づいたのは、上座部におけるヴィパサナとは、すでに仏門を選んだ人のための行法だということです。

つまり魂の目的を既に選んだという前提があるのです。

その前提なしに、またその道中の導きなしに幻想をはぎ取るというのは不可能だろうと私は思います。

 

それはヒプノセラピーで体験したことです。

潜在意識の浄化は最初は内外共にとても大きな変化をもたらしますが、重ねていくと停滞を迎えます。

どこまでやればいいの?癒しは終わらせられるの?という疑問はその途上に生まれます。

潜在意識は言わば自我を護る知恵の貯蔵庫ですから、ある程度身軽になったらそれ以上の浄化は自我が許しません。

 

私はクライアントさんから学ばせていただき、そういうからくりを理解しました。

そしてそれ以上進むためには、真我、つまり内なる神に介在してもらわなければならないと気づきました。

 

潜在意識は二元であり、負の側面だけを取り消すことは実は不可能です。

そしてそこを空にするのは、それに代わる護り手なしには不可能なのです。

 

その気づきがあってからは私のセッションへの説明も一変しました。

誘導の文言も一変しました。

自分で考えたのではなく瞬間の、それは導きでした。

降りてくる、というのはこういうことだと思います。

 

セラピーとは、治癒とは、癒しとは、変化とは、すべてが内なる神への道のりです。

真の癒し手は、肉体の治癒力などではなく、完全で神聖な心(意識エネルギー)なのです。

真の実在の介在なしには何も真実になりえません。

なんと呼んでもいいですが、「それ」を求めることなしに道具を使っても、どこにも行き着きません。

 

誰もが本当は神聖さの実在を求めているのではと感じています。

でも私たちは内ではなくどこかに、それを探しています。

もしそれが真の自己でないのなら、私たちが自我を手放すのはほとんど不可能ではないかと思います。

 

文章にするととてもややこしくもどかしいのですが、ともに瞑想したり、セッションで心をつなげてお話すると、言葉以上のなにかをすっと共有できてしまったりします。

多分、真理はそういう心の交流の中でしか分かち合えないし触ることができないものだと思っています。

 

ご一緒できることを楽しみにしています。

 

明日21日㈰午前10時開催の瞑想会はお席に余裕がございます。

本日20時まで、お申込みをお待ちしています。

 

感謝とともに

AZU拝

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]

瞑想への近道

みなさん、こんにちは。

昨日は氷点下まで気温が下がりました。

桜はまだまだこれから、と思っていたら周辺の見ごろはどんどん過ぎてしまいそうです。

札幌より寒いと噂の信州諏訪・岡谷市からお送りしています。

 

前回の瞑想会でいただいたフィードバックの中で、

「瞑想についての概念が変わった」

という嬉しいお言葉を複数いただき、ああ、そうかと自分の中で気づきがありました。

 

「瞑想というと、呼吸法を正しくやって、無になり空になり、雑念が出てきたら『喝!』みたいなイメージがあったんですけど・・・」

とおっしゃっていただき、ああ本当にそれですね!と思いました。

 

同じようなご感想はこれまでもたくさんいただいていたのですが、自分がヒプノセラピーという「二人でする瞑想」に慣れすぎているためか、瞑想へのハードルがちょっとぼやけていたのかもしれません。

 

ヒプノセラピーというのは、誘導によって瞑想に入っていただくことによるセラピーなのですが、瞑想未体験の方でも産まれた直後や胎内の記憶、また、それ以前に魂が体験した別の肉体の記憶まで思い出し再体験することができます。

そして更に真の自己意識と言えるハイヤーセルフとの対話も可能です。

つまり、いかに簡単に瞑想状態に入っていただけるかが重要なミッションなのです。

 

誘導瞑想は、瞑想の波長(脳波やその他の電磁的、音波的、エネルギー的周波数)の共振を誘発する役割をします。

共振しあうことで意識の壁を容易に超えて、共に深みに入れるのです。

 

「みんなで手をつないで一緒に海に潜るみたいに」というフィードバックをいただきましたが、まさにそうです。

そうすると一人でもがくより水の抵抗もうんと少なく、すんなり潜れます。

 

更にその中に一人、何度も何度も潜りを経験したインストラクターがいれば、ますます安心ですいすい潜れます。

間違いないかな、大丈夫かなと恐る恐る潜ると、無意識に防御したり抵抗したりしてしまうものですが、身を任せて安心するほど楽に進むのです。

 

想像すればわかっていただけると思いますが、一人でやって一人で納得するのはとても難しいものなのです。

古来から瞑想は師匠についてやるものであったというのは、先生の意識の磁場に引っ張られて同調できるということと、仕組みの理解、そして内側の実際の状態を確認する、という意味があったと思います。

 

瞑想会ではそれが全部可能だから楽しいのです。

師匠なしにでもそれを可能にしてくれるのは、神の教師は個々の内側にあることがわかっているからです。

 

仕組みという意味では私は一元論という真理を採用し信頼しています。

どういうことかというと、神は心だけにある、という見方です。

その見方をするだけで、瞑想はとても簡単になります。

 

内なる神に会いに行こうと思って肉体の目を閉じ座ることが瞑想です。

早く会いたければ、邪魔しようとする自我をなだめてあげるだけなのです。

自我は防衛することが使命なので、「敵はいないよ。だから出番はないよ」と教えてあげるのです。

そのために使えるのが呼吸なので、この上なく平和な時にする呼吸を再現するのです。

私はその時「ほほえんでください」と言います。

心の目線を微笑みのまなざしにして、その目で呼吸を見守るのです。

深い瞑想に入ると自然こうなっているのですが、呼吸は意識的に自律神経にアクセスする手段なので、もう先に微笑みを呼吸に乗せてしまいます。

 

そうすると自我は「ああ、平和なんだな、じゃあ休もう」ということになって、操縦の手をちょっと緩めてくれます。

 

そうすると潜在意識のふたが緩み、その奥へと降りることが容易になります。

そして潜在意識の見物もできますが目的はそこではなく、その奥の真の自己(神の子としての自分)そしてその生みの親である神の元へ、その懐に抱かれにゆくことができます。

 

真の自己に戻ると私たちは自我の目的から離れ、真の目的を思い出します。

それを教わる形で認識したり、直覚的に理解したり、共振という感覚で体験したりします。

或いはただただ愛に浸る、愛のように広がる体験の時もあります。

懐かしい、本当の、矛盾と葛藤の無い、自由な、超越的感覚としての体験もあります。

 

それらは潜在意識の情報というものとは違っています。

潜在意識は肉体の体験の記憶であり、真の自己のほうは、心の、魂の、記憶です。

アカシックなどと言われるのは潜在意識の図書館なので、宝の場のように言われていますが、それらはおそらくこの世のものです。

 

瞑想には目的すら持ってはいけない、とか、なにも求めないでやるんだ、とか、もう不条理劇みたいな表現が世の中にはたくさんあります。

そうでないと、自我がむくむくと自分の目的を掲げて、瞑想を呪縛にしてしまうからなのです。

 

内側に実在する真の自己を目的に瞑想すると、自我ががんばることなく、そっちに向かいさえすれば、神のほうから迎えに来てくれます。

ですから内なる導きにお任せすること。

導きの邪魔をなるべくしないことが、留意すべき点になります。

 

神がお迎えに来るのはあの世に行くときではないんです。

死は無いし、心は永遠に在ります。

いつ選ぶかだけが、神への道です。

 

次回瞑想会は4月21日㈰午前10時からです。

皆さんのご参加を楽しみにお待ちしています。

 

感謝とともに

AZU拝

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