AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]沖縄 心のセラピストAZUからのメッセージ

スピリチュアルな心と肉体の心

心とはつまり器のようなものだ。

ア・コース・イン・ミラクルズ(奇跡のコース・奇跡講座など今は多数翻訳出ていますね)のワークに取り組まれた方ならおわかりだと思う。

心という器は最初肉体に結びつくことを学ぶ。

体験から感覚の記憶が生まれ、そこへの評価とともに感情が育つ。

 

その成長過程がひとしきり終わると私たちはおとなになったことになり、社会から生産性を求められる。

 

しかし心の成長はそこで完成ではない。

人としての精神性や創造性、愛と言われる神の質はむしろそこから真価が問われ、磨かれ前進していくものだ。

 

心は、肉体感覚を感じる器から、神の質と結びつく器へと変容していく。

そしてここからが、人間の本分と言われるところなのだろう。

 

共感力は、神の質と結びついた心の作用だろう。

しかし自分の心が肉体に結びついている間は、肉体感覚や感情のほうへ傾く。

他者へ共感しても、他者の感覚や感情にひっぱられてしまい、その結果他者からの評価にばかり意識がいってしまう。

 

自分の心を、肉体意識から離して内なる神に結びつける方法が瞑想だ。

より深く心が神に結びつくと、他者の内なる神に意識が向くようになり、共感する対象も愛への共感へと変わる。

 

だから心は最初からきれいなわけでも汚いわけでもない。

それは器で、その時々に役割があり過程がある。

でも、ほおっておいてなるようになるわけではない。

自ら気づき、そのように自分を使いたい、心を使いたい、というふうに選ばなければ、それを決めなければ、肉体の習性、習慣に引きずられて肉体とともに役目を終えてしまう。

 

私たちは気づきとともに自ら神を意識的に選びなおし、神に戻る道を歩み始める。

 

人間はそのように創られているし、そちらへ向かっていくようになっていると私は理解している。

でも今のところ、気づいた人からひそかにそれをやっていくしかない。

それが当たり前になる世の中になるのかどうか、見てみたいというのがかねてからの希望なのだが。

愛と自我の誘惑

承前。

azworld.hateblo.jp

そう気づいていみると、私の幼少期の傷とか問題の核心とはなんだったのか見えてくる。

 

愛の代わりに怒りでいっぱいだった環境からただ、出ていきたかったのだ。

しかし、からだが出て行っても、からだに刻まれた記憶からただ離れることはできなかった。

それがからだというシステムだからだ。

 

私に必要だったのは、肉体に刻まれた記憶から離れ、本当の自分を取り戻すこと、ただそれだけだった。

 

 内なる神に気づいて導かれて生きる今、すべてはここにつながる道だったのだから、過去の出来事は小さくなりつつある。

しかし私の心は荒々しい体験の記憶から離れるほどに繊細で、小さなことにほどますます揺れ動く。

恐れに浸っていた肉体意識の記憶は消えたと思えばまた浮上してくる。

皮膚から、筋肉から、骨から、脳に刻まれた反応という経路から。

 

ただ、今の私はそれが真実ではないことを知っている。

真実でないものを遠ざけ、真実を信頼するやり方をからだで覚えてここまできた。

 

自我は生きる限り私に目を向けるようせがむ。

けれど今の私はそれから逃げることも目を背けることも無意識になることも必要としていない。

なぜならそれと一体化してしまうことなど選ぶ由もないからだ。

それは、私を乗せて走る乗り物の特性であり、幻想の特性なのだ。

そして真実はそこにはない。

 

私は今、自我によるコントロールに、怒りによるコミュニケーションにNOと言う。

愛を退け、自我を選び巧妙に迫ってくる怒りの誘惑にNOと言おう。

 

そして、自我からの攻防に傷つく度に、神の愛に戻ろう。

何度でも、何度でも。

自分が愛そのものになったと思った次の瞬間に神を忘れる自分を慈しもう。

それくらいに私は、愛を必要としている。

本当の愛とひとつに溶けてしまうまで、何度でも神を求めよう。


ブログランキングに登録しています。 クリックで応援よろしくお願いいたします。

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]沖縄 心のセラピー

AZU WORlDⓒ2006-2018