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トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

聖なる愛とつながる

心にもやもやがあるとき、みなさんはどうしますか?

私は内なる神さまに全部聞いてもらい、そしてその処し方も全部お任せしてしまいます。

 

でもこのやり方をなるほど名案!やってみよう、やってみた、うまくいった!と即座に採用、そして解決に結びつけられる人がどれくらいいるでしょう。

 

私自身、こんなやり方ではとてもじゃないけど安心できないという長い時間がありましたからわかります。セッションでも本当に長いお付き合いであらゆる意味で癒しが進んだ方でないときっと難しく思えるのではないかと思います。

 

これは、内なる神をみつけることにコミットメントした人には理解できる方法なのだと思います。コミットメントした人にとっては究極の方法になるでしょう。

 

そしてもし内面の探究をしていてここにつながらないならば、多くの努力や知識や学びは実を結ばないのではないかと思います。

 

神は突然宇宙のかなたからやってきて突然選ばれた人の前に現れるのではなく、永遠のかなたから未来永劫いつもでここにある、ということが真理であるなら、私たちはそれとともに生きるかそれなしに生きるかの2択です。

 

そして前者こそが、あるがままの本来の自然な生き方です。

 

人が人生に愛を求めるのであれば、私たちは次第にその生き方へと導かれるはずです。なぜならそれなしに、永遠の愛に生きることは不可能だからです。

 

たとえ今世で辿り着かなくても魂は幾世をまたいでも必ずあなたをそこへ連れていきます。愛を拒絶する限界はいずれ訪れるのです。

 

私たちの内側には完全なる愛という種がすでに植え付けられていて、光と水と栄養を注がれる許可がおりるのを待っています。私たちはただその許可をするだけです。

 

どうしてこんなに長いこと、その本当の意味がわからなかったのだろうと思います。どうして自分の欠点とその反対のものばかりに目を奪われてきたのだろうと。そのままで完全であるということの意味がわからなかったのだろうと。

 

神よ、私は心からあなたを受け入れる時、完全なのですね。

 

私が愛するものへ、私の愛が足りないところをあなたの愛で満たしてください。

 

そして私が受け取りきれない多くの愛に、あなたが応えてくださいますように。

今という体験

人間は経験したことしかわからない、ということを絶対的に本気で主張しているおじさんに会ったことがある。私がまだ役者をしていた時のこと。だから経験したことしか演じられない、と、その人はやけにムキになって言い張った。

「じゃあ私が娼婦の役をやるなら私はほんものの娼婦にならなきゃいけないの?」

と私はその時、ギャグで言った気がする。そうだ!おじさんは真顔で、切れ気味に言った。

わーお、まじにそう思うんだ。それならしょうがないや。ちゃんちゃん。

 

人は確かに体験から学ぶ。頭で考えたことを、現実は常に覆す。憶測でものを言うと痛い目に遭う。確かに。

前回記事で、経験値という言葉を使った。潜在意識は経験値のデータの集積だ。だから潜在意識からデータを引き出すことは、才能を使うことに他ならない。例えば不幸な人は不幸な才能を使うことに慣れている。逆もまたそう。

演技という表現はこれを使う。その使い方を訓練するのが演技の基本だ。才能というのは神秘的なものではなくて、とても実際的なものなのだ。体験の記憶を引き出すのだ。

それは、思考の産物の幾千倍の真実味がある。

 

ここで意識の仕組みのおさらい。

思考(顕在意識)< 肉体意識(潜在意識)< 超意識(魂)< 宇宙意識(神)

これが私たち人間のなかみ。

 

体験に価値があるというのは、それがすべて、今にあるから。

でも経験値を持ち出して比較対象して分析するのは、思考がやることであり、それはすべて、過去の産物。

 

今という体験以外に、意識のすべてを同時に知ることはできない。

今という体験。今の中にすべてを体験すること。

その方法が瞑想である。

 

瞑想なしに、或いは瞑想的な訓練なしに、私たちは今の中にすべてを見ることはほぼ不可能だ。

これが今であると認識している「今」は、ほとんどの場合過去の経験値をなぞる思考であったり、過去のデータである感覚や感情の浮上でしかない。

つまり、肉体意識にとどまっている間は、それは過去に生きていることと同義である。

本当の今にいるためには、それ以上の意識、つまり「すべてである」もの、愛や宇宙(魂や神)と言われる意識状態を、体験しなくてはならない。

 

肉体が認識している愛と、無条件の愛の間には、次元の差がある。それは経験値では決して超えられない。神から与えられた想像の力を使わなければ。

そしてその想像の力を、経験値からの逆算あるいは延長という制限から自由にしてあげなくてはその次元の差の橋渡しはできない。

 

少し前に理解できなかった形而上的なことが理解できる瞬間、あなたは次元をまたいでいる。瞑想が、内なる神を求めることが、それを可能にする。

azworld.hateblo.jp

かみさまの正体

神がいることをなにかしら信じている人は多いと思います。私自身はそれよりもう少し疑っていましたが。

 

自分にはどうしようもないことがわかると人は神に祈ります。そんな人をばかにする人も同じくらい多いかもしれません。でもその人はまだ、本当にそういう局面に立ったことがないか、なにか別のものを過信しているに過ぎないのだろうと思います。50年わりと真剣に生きているとだいぶわかってきます。

 

それから人は往々にして、どうしようもないことは望まないようにするという選択をするようです。そうしていると、自分は何のために生まれてきたのかをだんだん忘れます。物理的な選択を強いられる年齢を過ぎてしまうとそのままどんどん流れていってしまいます。

 

魂の呼び声を聴く力のある人なら、なにかしなくては、このままではいけない気がすると感じるかもしれません。と思っても、具体的に変えられるのは住む場所かパートナーか仕事くらいしか思いつきません。もしやってみても多分、しばらく経つと同じことを考えているのではないかと思います。

 

魂は、そっちじゃないよ、と私たちによく伝えます。でもそこで、どっちなのかが私たちにはわかりません。

 

こっちだよ、こっち。そのこっちは、魂のありかそのものなのだと今ではわかります。

 

でもそれがわかるには、外側ばかり見ているその世界観からいったん離れてみなくてはなりません。これまで生きて、良くも悪くもからだが知っているすべてを、経験値を疑ってみる必要があるのです。それは真実ですか?と。

 

たとえば心が傷ついたと感じたとき、傷つけられたことは圧倒的な真実です。でもその真実を信じている限り、その傷は癒えることがありません。癒えたと感じても、また再び傷つく可能性は絶対に消えません。可能性がある限り私たちはそれに備えるのです。

 

そしていつのまにか、それが人生になっています。

 

逃げ続けること、防ぎ続けること、傷つかないふりをし続けること、傷つく前に傷つけて勝つこと。

 

だから、いくらがんばってもそこに本当の勝利が、本当の満足が、本当の平安がないのです。

 

本当の勝利とは、満足とは、平安とはなんでしょうか。

それをみつけることが、本当の人生ではないでしょうか。

 

それは、存在します。あなたの中に。私の中に。

ですから、求めてみることなのです。

 

気まぐれな私たちが気まぐれに求める気まぐれな神ではなく、永遠で、無限で、自由で、完全な神を。それが自分自身と、そしてこの世界のすべてと、ひとつだということを。

 

すべてのカギは、外側に探さないことです。そのコツは、求めていただけるならセッションにてお手伝いいたします。

AZU拝

https://iyasiokinawa.com


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