AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

瞑想という平和(6月瞑想会に寄せて)

6月23日沖縄慰霊の日に、定期瞑想会を開かせていただきました。

沖縄ではこの日が格別に大切な日だということを重々承知の上で、特別な構えなしに、いつもの大切な思いで迎えたこの日でしたが、私自身にとってあまりに意義深い日となりました。

お集まりいただいたみなさま、改めまして本当にありがとうございました。

沖縄で迎える11回目の慰霊の日でしたが、思えばこの日にこんな風に、直接に深い思いに触れる機会は今までありませんでした。

私たち夫婦が移住したのは2008年夏、座間味のおばあが戦争と集団自決について話しているドキュメンタリー番組を見て、終わった瞬間に夫が決意したことから始まっています。

沖縄のことも移住などということも、それまで一度も話し合ったことなどありませんでしたし、何のためにそうするのかについてもその時はわかっていませんでした。

ただ、東京で自分たちの生存のための闘いに明け暮れるのではない生き方のためのなにかを体験しようとしていることはその時互いにわかっていました。

その時から神にすべてを問い、委ね、そして差し出された道を懸命に歩いてきました。

その日から11年を経て、この日のみなさんとの心の交流は、神からの答えと祝福そのものであった気がします。私は自分の持てるすべてを世界に差し出し、そしてその答えを受け取り続けています。

日々のセッションはすべて美しくつながっています。みなさんが私に与えてくださるテーマはどんな時も同時に私自身のためのものであり、もたらされる癒しはみなさんと私自身の双方に与えられる神からの愛そのものであると心の底から感じられます。

私たちが自らの内面の海に触れようとする時、私たちはその海によってつながり、同じ海でともに岸辺を目指し、そして一緒に泳ぐのです。

瞑想でつながる時、それぞれが観る景色は別々でも、景色を映し出すための光はいつもひとつです。その光がただひとつの神です。

私はこの日、これまで感じてきたことにまた一つ確信を深めました。

沖縄での慰霊の祈りは、そのまま世界への平和の祈りです。平和とは神が映し出すもののなかで最も神に似たもののひとつです。

沖縄で生きる人々の切実な思いの奥底から発せられる魂の叫ぶ声はただ、すべてのいのちが尊ばれることを望んでいます。ですからその声は神によく届くのです。

すべての人がただ静かになって聴くだけで、何が本当なのかきっとわかるはずです。

私は今、心から願います。

すべての人が自分の持つ心に関心を向けて、その奥にあるすばらしい世界に驚きと喜びを見出すことができますように。あなた一人がそのことに気づくだけで、それは確実なものになります。

私たちは内なる意識の海の中でみんな一緒です。

あなたは選ばれている

2019年6月22日。今日は夏至

明日は沖縄慰霊の日。沖縄移住から11回目を迎えます。

全体的な意識の変化の波を感じています。なにか行動をしたくなるけれど、大きなうねりの中にある時ほど内なる神にしっかりとつかまって、そこにこそ耳を澄ませること。そして安堵の中で状況を見守ること。

力んだ意識で見てしまうと、そこに自己の恐れや願望を投影して見てしまいます。

大きな波が去ったら、自分がどこにいるのかやがてくっきりと見えてくるでしょう。

 

私自身がただひとつの神をみつけた喜びはこの世のなにものにも代えがたいほどです。それが正しいからではなく(もちろん真理は正しいのは当たり前なのですが)それ以外に自分を安堵させるものがこの世にないということがなんとなくわかってしまったからだと思います。

誰もが特別ななにか、特別なパワーに、特別に守られたり愛されたりしたいと願っています。特別ななにかから、君は特別だよ、と言われる喜びというものを、多くの人が探し求めているように思います。

そして選ばれれば救われるような、そんな漠然とした指針のもとに人生を歩いています。自分がなにかを得るために努力すること、向上心なども含めてそうなっているように観えます。

それは人生にカンフル剤のような高揚を与え、生きる手ごたえを与えます。小さな達成も同じです。お掃除や、断捨離や、例えば他人に喜ばれるような奉仕ですらそうです。

そして、他人を喜ばせることに限界を感じた人は、自分を喜ばせるために生きたいと願います。昨今のスピリチュアルではそういう方向づけがあり、取り組んでみるけれどもそちらのほうが難しいと感じる人も多く見受けられます。順番が逆の人もいるでしょう。

肝心なのは、自分の喜びと他者の喜びは同じものであるというゴールであり、それは神なしにはたどり着けないゴールだということです。

内なる神なしに試みることの限界を私は体験しました。たとえ世界中の天使やガイドや聖なる存在たちが私を助けようとしても、私が特別だと言ってくれたとしても、その高揚のカンフルが切れたらきっと、生きることが更に虚しくなることでしょう。結局内側の自由なしに、私たちの幸福はあり得ないのです。

神はあなたに、君は特別だよ、とてもとても大切な存在だよ、と語りかけることは大いにあります。そして神はすべての一人一人に対してそうだということです。

そのことがわかるためには、自分は愛されていて、愛に値し、そして愛を与えることすら可能な存在であり、あなたこそが愛そのものである、という真実に目覚め生きることがどうしても必要です。

ですから神は、他の人と比較したり他の人がどうであるかということをまったく問題にしません。ただ、あなたは神のただひとりの子であるという真実をあなたに教えます。自我が受け入れるまでは、求めているのに受け入れられなかったり、あるがままを認めることが難しかったりいろいろです。そのいろいろは、自己意識(自我)が経験上作ってきた障壁のためです。その障壁はすべて、体験の当初に必然的に作られました。そしてそれを手放すことは、身の危険の感覚を伴うがゆえにとても難しいのです。

自我の作った障壁によって守ってきた自己を、それ以上の大きなパワーで守ってくれるのが神です。そのことが理解できるまでは引き続き自我の障壁によって自己を守るので、私たちは自分の城に閉じこもって、自由になることができずにいます。

スピリチュアルを学び始めると多くの人(私を含め)が、この城の所以や成り立ちを知り始めます。そしてそれゆえにこの城はすばらしく、その城を更に強固にして守らなければという意識に陥ります。過去世の体験こそが今の私を作った、というようにそれを持ち続けたくなるのです。そしてその城を守るために神すらも利用します。神とつながれるのはその城あってこそだと感じたり、その城ゆえに自分が特別だと感じます。それは決して悪意ではなく、ただその城に価値があるという思いがそうさせるのです。

その時はまだ本当の解放は始まっていません。もうこれ以上城、つまり自我の砦に留まることはできないという魂の呼び声によってその城の解体が始まります。城ではなく、本当の家に還って守られることを自我が選ぶ時がそれです。つまり自我が降参するのです。

神の家に還る旅は、その城に意味があるという夢を信じ切っている間は始まりません。もちろん、その夢をとことん味わえばいつかは有限で頑なな城に幻滅する時が来るかもしれませんが、恐らく長い道のりです。なぜなら人は願望を追いかけるほどにその夢に没入してしまうからです。

そうしているうちにも魂はいつでもあなたに声をかけています。とても小さな声です。自我の大きな声に耳を傾けている間はそのささやきを聞き逃してしまいます。自我の大きな声は過去の体験の記憶による再生であり、過去の出来事への所感を放送し続けています。夢や感情や体感、思考、様々なところでその声を聴かされます。あたかも神の声だと思いたくなるような聞き慣れた声です。

内なる小さな声はその大きな声が鳴りやんだ狭間に聞こえます。

それは聞こえるものですらありません。

その声はただ、「わたし」が永遠普遍の真実であると魂に伝えます。普遍の真実は特別の対極にあり、すべて、ひとつであるということです。そのすべて、ひとつであるものが「わたし」であると告げます。

誰一人としてその救いの網目から取りこぼされることはなく、地獄もそれに呼応する天国もなく、ただ、今ここが天国であり神は最初も終わりもない真実であったとあなたが気づくことで悪夢は終わるのだという真理。

そして最後のひとりがその悪夢から覚めるまで、神は待っている。最後のひとりが神の家に還るまで、私たちは連帯する。最後のひとつの細胞が目覚めるまで私たちは繰り返し、愛する。愛を生きる。幼い未熟なちからで。

AZU拝

全き愛、唯一の神

もしこの世界に神々がたくさんあって、いろいろな神がいるというのなら、そしてそれをスピリットと呼んだりガイドや守護霊などと呼んであがめるのであれば、或いはなにかをあがめるのが嫌いな人々がそれを友達のように扱って自分の生活に協力させたりそれを預言や啓示のように扱ったりするのなら、それにどんな意味があるのだろうか。

高次元を単に固体より波動の細かい気体となったものだとするなら、スピリチュアルを肉眼に見えないものを含めた物理の世界のことだというなら、それになんの意味があるというのだろう。

私には無意味だと感じられる。

もし人が多種多様であるように神々も多種多様だというなら、人にそれぞれの価値観があるように神々にも価値観の違いがあり目指す理想や頂点が違うというなら、或いは自分と違う神を認めるというような、一見人の価値観からすると寛容な主義をもつ神がいたとして、果たしてその神の存在意義はなんなのか。

神はひとつであるということは圧倒的な真理だと私は思う。そしてそこにしか究極救いはない。

セッションをしていて私はいつも救われている。目の前の人が内側になにかをみつけて視野を広げ、自分そのものへの概念を変えていかれること。世界というものの捉え方を変容されていくこと。それそのものが癒しであり奇跡だと感じる。

生まれ育った家庭を含めた環境に適応して私たちは育つ。そしてそこで培われたデータベースをもとに人生の旅をする。それが自然な営みだ。しかし神だけが、そこへの書き換えを可能にしてくれる。神の恩寵、神の慈悲、神の愛だけが、私たちが体験したことのない真実の愛、つまり神ご自身を私たちに植え付け、再生可能な状態で私たちに持たせてくれた。

安心感なく育った。与えられずに育った。傷つけられながら育った。両親の戦いに、愛憎に巻き込まれながら育った。生きる過程で自信を失い、目的を見失い、どう生きていいかわからなくなった。そういうきょうだいたちが地上には大勢、生きている。がんばって生きてくれている。

愛を体験するために地上に降りた魂にとって、自我の戦場は過酷だ。

しかし魂は覚えている。自分が本当は愛そのものであり、それを分かち合うために来たのだと。魂は無限の本当の親、本当のふるさとから来たのだと。

もし神が分裂していたら、あの神はこれ、この神はあれが良いと言い、あなたの目的はこれ、この人の目的はあれだと言ったら、人同士の真の理解や分かち合いや癒しは起こらない。対立は永遠に続き、戦争は決して終わらない。和解も赦しも、時々、偶発的に起こったり起こらなかったりする。

私のワークも気まぐれな結果しかもたらさないだろう。そんなことを続けることは私にはできない。

沖縄は信仰の深い地だ。しかし分裂した神々を信じている人には親族同士、結婚した家族同士での対立が多い。このやり方でなければ神に届かない。災いは違いのために起こる。その痛みに信仰から遠ざかる人も多い。

ムスリムが信仰のためにテロを起こすと世界では信じられている。日本でも信仰と自我が混乱して大きな無差別テロがあった。多くの人が神を理解できずに神から遠ざかっている。しかし同時に、幸せと、愛からも遠ざかろうとしている。

心を閉じたまま、心の目を閉じたまま、生きている人が大勢いる。

神がひとつだというイメージは誤解されている。

一神教多神教では多神教のほうが寛容というイメージもあるかもしれない。

一神教多神教というふうに神を分けることが可能だろうか。もちろんノーだ。

神々とは単にひとつである神の顕現に過ぎないと私は思う。

ひとつの神に多くの扉があり、あなたはあなたに近い扉を開ける。それだけのことだと。しかし扉を開けるには多くのしきたりや伝えきれない叡智がある。人間が悟っていない頭で解釈したための誤解も積み重なっている。それを学ぶだけで幾世もの人生を費やす。ひとつの扉を追及しているうちにその扉だけが真実であるかのように錯覚が始まる。

クリシュナは「どの神をあがめている人も本当はわたしをあがめているのだ」と言い、キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言う。それが神から見た真実だと思う。クリシュナとキリストに違いはない。神の側から見ることが可能な人にとっては。

もし神々が分離していたとしたらどの神にも限界があり無限ではない。その神に依存したとしても私たちは限界のあるゴールにしか向かうことができない。そのゴールに意味があるのか。ないと思う。それは幻想のゴールであり、それは通過点ですらない。それはこの世にある自我の幻想の価値観に属するものだ。その有限のゴールのために、本当の天国を見失うのだ。今すぐに向かっていいはずの真実を見過ごしてしまう。少しは良くなっているに違いないという過信や己惚れにも誘惑される。

過去世ワークをしていて昔よく出会った過去世のお坊さんがたは往々にしてそういう状態にあった。

スピリチュアルの挑戦は宗教に属さず或いはそれを超えて神を探究することだと思う。しかしひとつの神という真理の領域に踏み込む者は少ない。宗教の枠組みを超えるつもりが神そのものから遠ざかるものも多い。

ひとつでない限り、神は有限である。有害であるすら言わなければならない。有限のものの価値観は、有限の中でよりよくなることでしかない。どこまで行っても二元論の価値観から逃れられない。より良くなるためにはなにかと比べなくてはならない。この世にあって、私たちはより良くなるために獲得し続けなくてはならない。ネガティブな体験を避け、ポジティブな体験を好む。まさにこの世そのものだ。しかしネガティブは決して消えはしない。なぜならそれが世界を構成しているからだ。

ひとつの神はその二元世界そのものから私たちを目覚めさせ、引き離してくれる。正解のない戦いという悪夢から、或いは自分だけが優れている、優れていたいという悪夢からそっと目覚めさせてくれる。

私たちは等しくひとつの神の一部であり、等しくひとつの神を宿す者だ。

私たちはその神のもとに等しく愛を宿しそれを顕現させることができる。

そしていかなる状況、いかなる側面にあろうと、今そこから神を思い出すことができる。神の子としてふるまうことができる。それを選ぶことができる。その恩寵によって、この世の法則を超越することさえも許されている。

それは私たち二元性の世界で生きる生き物の目で見れば奇跡であり、ひとつの無限の神から見た自然である。

それが全き愛の世界だ。

私たちはそんな究極の探究を許された世界に生きる。違う意識の時代からみるとそれはそれは恵まれた世界なのかもしれない。

 私たちはただ心を通してその道に招かれその道を生きることができる。心という扉を開けることによって。

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その道をご一緒できるよう、ささやかな場を作っております。セッション、そして瞑想会でぜひご体験ください。

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鍼灸師・ヒーラーの風間真吾と、心のセラピストAZUの主催による瞑想会です。深い瞑想は私たちを本来の無限の魂の意識へと呼び戻してくれます。瞑想の磁場と波動をご用意してお待ちしております。私たちの施術、セッションの根幹をなす癒しと瞑想の時間をご一緒にお過ごしください。

 

場所  ルーア心のセラピーセッションルーム(南城市知念具志堅34-4)

日時  2019年6月23日㈰ 午前10時から12時

ご参加費  1500円

内容  リラクセーション、ヒーリング、ボイスヒーリング、誘導瞑想、瞑想、経絡体操、シェアリング、質疑応答

定員  8名様まで(参加者おふたりさまから催行いたします)

お申込み  お電話かe-mailで、お名前と、初めての方はお電話番号を添えてください。✆ 098-928-3925 ✉ ruach@live.jp

締切  前日18時までにご連絡ください。

※駐車場はございますが、狭めのためお乗り合わせてのご参加は歓迎です。

※お電話かメールにてご連絡ください。よろしくお願いいたします。


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