AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

どうぞ、お受け取りください。

セッションで奇跡的だと思うのは、外的な要素に何一つ変化がないのに問題を解決することができるということです。

人が苦しみを感じる時、まずは「問題は周囲に(あるいは肉体に)起きている」と感じます。

そしてそう感じている間は「解決法は外側にある」と信じています。

それが第一段階。

その段階で私のところにみえる方はほとんどいません。多くの方が、問題はそこではないと知り、自分と向き合うことでそれに取り組んでいるか、そうしようと思っていらっしゃいます。

でも、心の中に何かを責める思いがあるうちは、向き合うことはとても困難です。なぜなら向き合うということは、受け入れなくてはならないからです。責めるということは、受け入れない姿勢でもあります。

あるがままに見るというのはそこに自分の信じている思いをくっつけずにそれがどう位置しどう向いているかを観ることですが、私たちはそもそも信じている思いというメガネをつけている状態でしか世界を見ていないので、そのメガネをかけていることにもメガネになにがくっついているのかにも気づけません。

そのメガネは、周囲にあるものを「敵か味方か」「安全か危険か」というふうにより分けて見ています。そのメガネは生存にとってとても大事であり、そのメガネの精度を上げることがより賢く生きることだと信じられています。

人間関係の問題というのは、幼少期の生存のために最重要な存在である「母」に照準を絞って作りこまれたメガネで別の人を見た時、その人のあるがままを見ることができないことから来ています。

そして問題に対して、相手の在り方か自分の感じ方、そしてそのように育てたお母さんとの関係に問題があると理解し、それが「悪しきことの原因」だと責めています。

つまり、原因を追究している間に責める相手は推移しますが、責めていることに変わりはなく、そして責めている間は心に安らぎはありません。安らぎが訪れないということは、その問題は解決していないということです。

安心した、すっきりした、というのは単に気分の問題だと思われがちかもしれませんが、本当の解決とは「平安」です。なぜなら生き物にとって脅威があるうちはそれは戦っている状態であり、人は戦いながら愛することはできないからです。愛することは、あらゆる局面におけるゴールです。

奇跡は、愛以外の解決法で不可能だった問題を愛によって解決することで起こります。

愛で解決するというのは、精神論や善悪、正邪という二元論を超えた原則に戻ることです。

例えば上の例で言えば、責めていたことに気づき、責めることによって自分を守るという防衛法をやめてみるということです。

戦いが終わると、あるがままという姿が視界に入ってきて、本当のことを受け入れてみるということが可能になります。

なんであれ受け入れてみるということが可能になった時点で、それは敵でいることはできなくなります。敵が消え、責める相手が消え、和解が起こります。それが癒しです。

私たちの問題の正体は、どこまで行ってもここに例えたような、エネルギーの質と方向性が織りなす原則に反する「誤解」から来ています。

癒しも浄化も邪気を払うという行いも、意識にこびりついた思い込みという誤解を解く作業に他なりません。取り組むことを選んだ者のきつく結ばれたカルマの結び目に、内なる神は油をさしてくれます。

問題が解決した時まっさきに目に入るのは、問題の解決は目的ですらなかったという景色です。それはまさに、奇跡に出会うため、神をみつけるためのみちしるべだったとしか言いようがありません。

さあ、いやおうなく愛と光が流れ込んできました。

kokoro-iyasi.jimdosite.com

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ご協力をお願いいたします。

 

感謝とともに

AZU拝

命について思うこと

生きていくために必要なことをわたしたちは学びながらおとなになります。そして、生きていくために必要なことをやり続け、必要なものを手に入れ続けながら生きます。

あたかも生きるとは、生きるために必要なことをやり続け、生きるのに必要なものを手に入れ続けることであるかのように。

 

それが生きることの意味だとしたら、生きることは疲れます。わたしは、生きることの本当の意味がみつかるまで、生きることにいつも疲れていました。

 

ただできることをやり続け、ただ手に入れ続け、いのちと時間を消費することが生きることの正体だとしたら、人生とは絶望するまでのゲームに過ぎません。目減りしていく希望とともに生命力が消費され、最終的には絶望とともに命が終わるというような。

 

今もクライアントさんからこのような訴えを伺うことがありますが、それはもっともだ、というふうにわたしは思います。ある側面から見れば。もしかしたら今、社会の中での命の扱いを真に受けたらそうなるのかもしれません。

 

わたしは、ですからそれではないなにかを人生でみつける必要がありました。世間で言われているような人生の価値や、いのちに対する理解ではないなにかを。

 

今人類の中で、心が豊かであることや安らかであることの重要性はどこらへんに位置づけられているのでしょう。わたしたちが、愛や平和について学び、理解し、より深い見地へと到達し、それを構築するという目標の重要性はどれくらい重視されているのでしょう。言葉で目にすることはあっても、一人一人の心の中で、そして集合的な意識の中で、実際はどのように扱われているのでしょうか。

 

まず寝食が足りて、その次でしょうか。それとももうちょっと物を手に入れてから、そのためには生産性を上げて、それから市民権を得て、もう少し権力を確保して、大金を手にして、それを維持して、循環するシステムを確立して、末代までの権利を獲得して、それからでしょうか?

 

そうなってはもう、それは重要視されているとは言えません。冒頭に書いたように、人生とは獲得であるということそのものです。恐らく世界の主流はそのように今、なっているのです。ですから、多くの人が生きにくくなっています。なぜならそれはわたしたち人間の本性と乖離しているからです。

 

でも、わたしたちが幸せに生きるための本流に軌道修正するために世界が変わるのを待つ必要はありません。

 

もし今あなたが、自分とは?人生とは?生きる意味は?と一瞬でも立ち止まってみるわずかなスペースを持つことができるのであれば、それに取り組むことができます。これで、このままでいいのだろうか。本当に満足なのだろうか。最後に良かった、ありがとう、と心から言えるのだろうか。自分自身に。その命の源に向かって、と。

 

わたしはかつて自分はこのままではいけない、と思っていました。だからと言ってどうすればいいかはわかっていませんでした。でもその答えがわからない問いかけや、誰もがみつけていない答えや、探しても無駄だよ、とさえ囁かれている命題を求め続けました。

 

みなさん、求めれば必ず与えられます。そして、それはすべての人が自分の中にみつけるものです。誰かが言った正解ではなく、内側に確かな実感を持って体験すべきものです。

 

ですからどんな場合にも人生は放棄してはいけないと思います。逃げてはいけないのではなく、ある時は逃げてでも死守すべきものだという意味で。

 

自分がみつけて納得し満足したら、今度はみんなを手伝うという栄誉ある仕事があります。命がある限り、生きているだけで、その役目をすべての人が負っています。そのことは、本当に自分の中にその価値と意味をみつけた人にしかわからないのです。みつけた人ならわかります。どんな姿でどんな在り方であっても、尊い命を担っていることが。

 

そしていったんみつけてしまったら、すべての人が本当はそのゴールを目指していることも、それをやめるなんて本当はできないということもわかります。

 

ですから早合点しないで、命をみくびらないで、忍耐強く自分を生きる必要があります。そして本当にみつけた人になるまで、人は変わり続けるということを忘れないでほしいと思います。永遠普遍の真の自己を自分の中にみつけ、それと永遠に出会い続けるようになるまでは。だから決めつけてはいけません。

 

わたしも、日によってはまだ、虚しさや無力さを味わって生きていますが、でもそれは幻想なのだということを今は完全に理解しています。

なにがリアルでなにがまやかしか、わかります。

そのことをみんなで共有して、励まし合って、そのゴールのすばらしさやそこに向かう楽しさを満喫しながら生きていきたいと願っています。

 

あなたの魂があなたに呼びかける言葉やきっかけはあらゆる形で用意されています。なんであれ、あなたが立ち止まり、おかしなベルトコンベヤーから降りて自由になりたいとき、お手伝いできることを楽しみにしています。

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感謝とともに

AZU拝

瞑想会で引き出されたガイダンス

みなさん、こんにちは。

今日は31回目を迎えた定期瞑想会を開催させていただきました。今日もなかみの濃いミーティングとなり、お集りくださったみなさんに感謝でいっぱいです。

 

みなさんが今どこにいてなにを望んでいようと、それがどんなに困難で希望の見えない道であったとしても、今そこから、次の一歩を踏み出さなくてはなりません。

まずは呼吸をする、水を飲む、眠る。たとえそれしかできないとしても、そのすべての行為の質を上げてくれるのが瞑想です。

何もかもを失ってしまったと思える時でも、呼吸をしています。

その呼吸の質を上げればエネルギーは必然的に変化します。

その変化があらゆる前進につながっています。

 

「呼吸できている。ありがたい。」

そんな風にもし感じられたらとてもラッキーです。あなたは次にその感謝に出会うからです。

 

「呼吸が苦しいな。良くなりたい。」

それもすばらしいことです。現状に気づくことができ、前向きな願いを抱いたからです。内なる神がそれに応えられるでしょう。

 

何かが起こっていても起こっていなくても忙しく動いている思考。その思考の質を上げるのも瞑想です。瞑想は無用な思考を止めるだけではありません。その思考の元となっている感覚の記憶のお掃除をします。自己意識の浄化とはそれです。思い込みを手放す、というのも同じことです。

 

今、世の中でおかしなことを見回してみると、人間とは何か、どんな存在でなにが重要なのか、人生とはどうあるべきなのか、という根源的なことと直結した問題が浮き上がってきているように見えます。

 

そして個々が正しい答えを考え出そうとしています。或いは感じていることを問い正しています。でも考えても出てくる答えには矛盾があります。

「誰かにとっての良いことは、他の人にとって都合が良くない。」

それが思考の限界なのです。頭で出す答えの限界なのです。

 

そこで自我はなにをするかというと、自分の答えのほうがより有用で有益だという主張をします。その裏付けを自分や他者に証明したくなるのです。承認されたいという自我の根源的な欲求はどこまでも同じやり方で押し通してきます。

 

自分にとってどう考えても正しいことが他者にとって不利益である。或いはその逆。私たちの自我はその限界の壁にいつも阻まれていて自由であることを知りません。

 

壁に激突するか、或いは見て見ぬふりをして壁の中だけで用を足すか。攻撃か防御か。自我にできることは結局それしかありません。

 

瞑想を知るまでは。

 

瞑想する人は落ち着いて聞き入れ、引いて眺め、近づいて寄り添い、共感して和解する、という道を歩み始めます。

 

それが難しいのは結局のところ、最も近しい関係の間ですることです。

ですから身近な関係に取り組み、自分と向き合い、それを頭ではなく心で解決しようと試みる人は必ず、愛に、内なる神に出会います。

その親密なふれあいを可能にしてくれるのが瞑想なのです。

 

その人は社会という枠組みの中でも光を放ち、平和への道をみつけていく人となるでしょう。

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感謝とともに

AZU拝


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