AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]沖縄 心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

変化

台風9号のお見舞い申し上げます。

知念具志堅方面は奇跡的に電気が来ていますが、今日はトータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]沖縄はお休みをいただいています。

今年は初旬から新型コロナの災厄に見舞われ、地球の大半が被災している状況と言っていもいいかもしれません。

またこの状況に対して様々な見解があります。大きな変化の最中です。

 

前回8月の定期瞑想会で、

「疲れている自覚はなかったけれど、こうして内面に入って改めて感じてみると

自分は疲れていたんだとわかりました」というご意見を伺いました。

瞑想でそんなふうに感じるものなのかと思われる方もおられるかもしれません。

またそれに気づくことになんの意味があるかと思われるかもしれません。

でも本当に大切なことだと思います。

 

私が私の中心に戻るにあたって、私が今どうなっているのか、ゆえに今どう感じているのか、そしてそれゆえにどのように求めているのかを感じるということこそが自分を知ることに直結します。

そして瞑想はその姿をあなたに見せて、そこからそっと中心へと誘ってくれます。

瞑想の最中に理解するかもしれませんし、それ以外の時間にふと、わかるかもしれません。

(ここでいきなり、まさかの停電!幸い記事は保存されていました💦)

 

でもみなさん、全部自分でやろう、という圧力を自分にかけないでくださいね。

自分で自分の内面や人生をコントロールできるようになることは、自己探求の当初の目的のひとつかと思いますが、それは自分を自分の思う通りにしていくこととは違います。

自分の内側に満ちている意識というエネルギーに触れていくと、自分はほとんど生かされていて、自分のちからで生きているわけではないとわかります。

 

「自分の思うようにする」或いは「なにが自分の思う通りなのかを探す」ことと

「もっと大きく未知で崇高な目的を生きるようになること」は

一見どちらも自分を愛することと似ているようでまったく違います。

 

現代社会の中で生きていると、私たちは小さい我の世界の中で溺れないように生きることで精いっぱいです。その中で自分を取り戻すと言われると、あたかも前者が最善に見えるかもしれません。

 

「求めれば与えられる」。これは真理ですが、与えられたものを「得よう、得なければ」と思ってしまうと、与えられているものは見えなくなります。

「与えられたものを受け取ること」。私たちに必要な在り方はこれなのだと思います。

 

受け取るという姿勢は真我、愛を生きるようになるための最も重要な視点です。

獲得しようと思う時、私たちは外側を探し、受け取ろうとする時、内側に手を広げているからです。

その時私たちはハートを開いて、心の眼で観ています。

 

意識の変容を受け入れることは、これまで正しいとか価値があると信じてきたものを手放すことです。そのことを次元が変わると表現できると思います。

次元上昇というのはまさに、意識の変化のことです。

それは「得る」とか「自分が」という思いを超えたところにあるのです。

超意識という言葉はそれを表しています。

二元性の良し悪し、3次元での達成を「超越」した「愛」という次元のことです。

 

求めればそれは与えられます。

内面に向かって手を広げ、ハートを開き、心の眼で観て、受け取ってください。

目覚めて生きるチャンスを多くの人が受け取られますように。

 

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]沖縄 公式サイト

■新型コロナウィルスへの対応を継続しています。
・入り口にてマスクの着用と手指の消毒、検温をお願いしています。
・風邪などの症状のある方は回復されてからお申込みください。
・2週間以内に県外への渡航歴のある方、感染者との接触のある方、そのご家族は、2週間を経過してからお申込みください。
ご協力をお願いいたします。

 

感謝とともに

AZU拝

本当の自分を生きるとは

私の20代を決算するなら「挫折」がふさわしい。プロの俳優の娘として生まれ育ち、ごく自然に表現の道を選んだ。傲慢な意味ではなく自分の中に才能があるのがわかっていて、やりたいことがはっきりとしていて、それがゆえになにを努力すべきかもわかっていて、その努力がとてつもなく好きだった。

運良く、周囲の助けによって、自分では選ぶはずのない大学で演劇を学ぶことができた。学校の教育はすばらしく、私は生き返った。高校までに身に着けた世俗の垢を落とし、純粋になることができた。純粋な良き事に没頭できた。私にとっての演劇は神聖だった。舞台の板に乗るとき、何一つ持たずにただ私の生命を預けることができた。神さま、どうかこの舞台が終わるまでは私を生かしてください。そのあとのことはなにも望みません。もし声を失っても、足を失っても、私はきっと舞台に上がるだろうと信じていた。それでも私は舞台に上がる価値を持っているとわかっていた。それは魂だった。魂とともに舞台に上がることさえできたら私は奇跡を起こすことができる。

だから舞台の上で私は輝くことができたのだと思う。恐れがなかった。

舞台をやり始めてすぐにそういう境地にあったから、当然ながら周囲のおとなとは価値観が合わなかった。良かったのは大学で同じ教育を受けた同志と一緒だった時だけで、それも大学を出て社会という大海に船出するとだんだんとずれを感じるようになった。

それだけではもちろんない。私は神経質でプライドが高くて非常に傷つきやすかった。また表現者の家系の母は、プロは食えてなんぼ、売れてなんぼ、という価値観だった。プロになるのは夢ではなく超現実だった。飯を食えないのは遊びと同じだったし、世間の目も、無名な表現者は「たまご」だと認定した。早くから市場に自分を売りに出さなければと思っていたし、中学生から望んでいたのはいち早い親からの自立だった。だから演劇を神聖視する一方でただ純粋に好きで楽しむということとは全く違った目的のためのツールでもあったと思う。

早くから私は場を選びすぎ、そしてその後は選ばなすぎるようになった。

20代全体を使って、私は何もかもを失っていった。

時代はバブルからバブルの崩壊を辿っていた。

20代の頃には自分はアダルトチャイルドだと気づいていた。なにもかもが辛く窮屈なくせに、自由が与えられても決して自由になることはできなかったと思う。自分は損なわれてボロボロになっていると感じていて、自分のほどんどの部分が嫌いで仕方なかった。修復するにはなにもかも手遅れに思えた。その一方で、修復しない限り自分の未来は開けることはないだろうとも感じていた。

時々セッションでもたとえ話として自分の例を持ち出すこともある。なるべく簡潔に手短にではあるけれど。「とても想像がつかないですね」と、優しく返してくださる方も多い。

インナーチャイルドと向き合う価値は無限にある。修復と治癒的な意味はもちろんだけれど、セッションを20年やり続けてきて思うのは、インナーチャイルドワークは目覚めに向けての最短の道だということだ。

目覚めとは自己の本質を見出すことであり、本質を見出すとは自分と混同してしまったあらゆる価値観を落とすことだ。病んでいるのかそうでないかはまるで関係がない。無意識を意識化し無知を知に変え闇に光を当て恐れから自由になることだ。

母の胎内で肉体を持ち始めた頃から取り込み始めた既存の価値と世界観の虚と嘘に気づき、ほんものを受け入れていくことだ。

虚はあなたに付け足すことを求め、ほんものはあなたがほんものであることだけを教える。虚はあなたが高みに登ることを誘惑し、ほんものはあらゆる誘惑から目を覚まさせることを促す。

人類はもう、そこと向き合わなくては前に進めない瀬戸際に来ていると思う。虚に飲み込まれてしまう前に。

kokoro-iyasi.jimdosite.com

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感謝とともに

AZU拝

いつかは来ない

自分の人生の中で最も闇が深かったとき、どうやってその濃い闇から浮上したのかを振り返ると、それは自分の力と思われていたもの、例えば合理性、正しさ、強さ、頭の良さや特別な能力、まじめさ、優しさでさえ、まったく歯が立たなかったと認めざるを得ない。

その頃は既に自分なりの祈りも瞑想もそして自己統制や内なる指針にも興味を持っていた。しかし当時は、自分が正しいと信じているもの、つまり自分が既にかけているメガネを通して判断した上での神や愛を求めていただけだった。

良い子にして悪いことをしないで待っていたら、いつか神さまが私がこの世にいたことを思い出し、選んでくれて自分は楽になれる、というような感覚に近かった。

私の母は自分を無宗教無神論者だと言ったが、無意識的にはこのような観念を強く持っていたと思う。これだけ苦しんだんだからそろそろごほうびが来てもいいはずだ、これだけ悲劇を味わったんだからいつか白馬の王子が救済に現れるはずだ、というような。このような観念は多くの人の潜在意識に根深く刻まれているように思う。

この世界観は、古い宗教観と一致している。

その背後には、罪と罰という呪いがあり、カルマという言葉はそれらを想起させる。

そしてその罪と罰が神的ななにかから一方的に課せられたものだという思いがあり、それを免れるには良い行いをして帳消しにするしかない、というような考えが流れている。

苦しみの中で良い行いをすることは、苦しんでいる自分をさらに追い詰めながら他者を優遇することであり、目的はその向こうにあるであろうごほうびだ。

この観念に従って生きると信じられないことに、私たちは愛からことごとくはぐれてしまう。その恐れと支配はまぎれもなく自我から来るものだ。

私は宗教を否定しないし、それぞれの中にとても重要な真実の種があると思う。しかしどれもが不完全で、時には救済の真逆へと人を誘う。それは人間が作ったものだから。

ちなみに私の父は「宗教に関してかなり勉強したが、信じるに値しなかった」と私に語ったことがある。私も父ほどまじめにではないがそれなりに求め、そして完全さという安らぎをみつけることはできなかった。

もうみなさんはおわかりかもしれない。完全な平安はどこに探すべきなのかを。

そしてそれを今すぐにここで選ぶことができるということを。

誰かに、何かに認めてもらったりごほうびを待つことなく。

待っている限りは私たちは罪と罰の世界から愛の世界に戻れない。

「愛でいさせてください。」

その祈りからすべては始まる。

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AZU拝


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