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トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

心はなんでも知っている

みなさん、こんにちは。

前回の記事をたくさんシェアしていただけてとても嬉しいです。

世の混乱が多くの人の心に負担をかけていると思いますが、一緒にがんばっていきましょうね。私もがんばります。

 

私たちの内なる探究の道はすべて、内なる神(神という言葉が嫌な人は愛に置き換えて読んでください)に還るゴールに続いています。神の子であった自分、神が創ったままの自分を思い出すことです。

私のセッションはその神のやり方での癒しを体験していただくものです。神の泉から湧く泉の水を実際に飲んでいただくこと。それによって、命が再生する体験をしていただくことだと思っています。

しかし私たちは普段の生活の中で、神の泉が私たちの心の内に湧いていることを忘れています。そして無意識に何か別の方法での解決を求めます。別の方法というのは「自我なりの解決」です。形や外側の誰か、何かを変えることでの解決です。

神のやり方は、状況を一切問わずにただ心を変え、それを超えることによって解決します。そして超えたことに伴って状況が勝手に移行するのです。それは、そう信じそのように世界を作っていた自我がパワーを失い退くからです。すべては心が創っているという仕組みに従っています。

もしそのやり方をマスターしたければ、神の泉が自分の中にあることを常に思い出せるよう心に教えてあげる必要があります。どんな場合でも「自然に」そうなるよう潜在意識レベルで、つまり無意識であっても、自然に手が伸びて神を離さないようになるための訓練の最強のものが瞑想です。そしてもちろん言葉による理解、それを普段の行いに実践すること、そしてなにより内なる神自体を信頼し愛すること、それらすべてが揃ってこそ、訓練が進みます。

訓練というイメージに対して私たちはいろいろな反応をしますが、それはイコール創造とも言えますし、生きることそのものとも言えます。もし、より豊かに、或いは幸せに生きたいと望まれるのであれば、そこにその道は用意されています。それは神が私たちに差し伸べた手です。

そこまでしなくても、困っていない、とお感じの方もこの世にはたくさんいらっしゃると思います。でも人生のあらゆる局面で私たちを苦から救っているのは神であり、神の心と同調しそれを体現して生きることを選択した人々の意識の力にあります。

私の個人的な体験を振り返ってみればすべてがそうでした。自分で解決できたことなど一つもなかったと思います。すべてが大いなる内なる導きによるものです。

定期瞑想会と心の勉強会の中で実は二度「神ってなんですか、神って私でしょ」という問いかけをいただきました。私の心の師、パラマハンサ・ヨガナンダはこのような考えをまったく意に介しませんでしたが、私はショックでした。

動揺したので多分、お伝えしたかったことは伝わらなかっただろうと思います。

そしてそのことについて度々学ぶ機会がやってきます。この問いはスピリチュアルを学ぶ人に度々起こる根深い誤解とつながっていると感じています。

 

自我は存在し続けるために、或いは存在価値を求めるために、神をみつけることを回避します。自我がとる回避の方法はそれこそいくらでもあります。

自我の最大の望みは承認されることです。

 

自我は承認を得るためであれば、神をも利用しようとします。スピリチュアルや宗教が陥る罠はそこにあると気づきました。

私たちは神を受け入れるほどに外側に承認を求めなくなります。

それが内なる平和をもたらします。

(攻撃と防御は承認を手に入れるための手段です。)

その平和は、その人の内から無限の泉のようにあふれ、周囲の人の渇きを癒します。

神を知っている人とはそういう人のことなので、神って私なんでしょ?という言葉の背後にある矛盾をすべて解決してしまっているのです。そしてその人の在り方、思考、感情、行いのすべてが神の愛と一致していて、そのすべてが奇跡をもたらします。

神を求めている人は、そのような人や状況と出会えば恐らく、少なくとも「そこに真実がある」と直覚するでしょう。

 

ヨガナンダの僧院から送られてくるブラザー・チダナンダの復活祭のメッセージに次のような言葉があります。

「・・・イエスの復活という究極の勝利は、魂が自我意識に、数えきれないほど小さな内なる勝利を積み重ねて達成できたのです。・・・この世界は私たちを、エゴの衝動(私たちの好き嫌いであり、感覚や感情や習慣に支配されること)に従わせて、魂の直覚という懸命な導きに注意を向けないようにしてしまいます。しかし意識的に注意力をはたらかせて——幸せを与えてくれる良心の声に注意を向けるたびに——私たちは復活に向けて更なる一歩を進めることになるのです。・・・」

月食の神秘的な明かりが闇を浮き上がらせ、真実の全貌を私たちの心に見せてくださいますように。

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愛というコミュニケーション

コミュニケーションって難しい、という言葉をよくうかがいます。一見いろいろな形があるように見えて、重要なのは、愛におけるそれだと思います。

人はみな、私の思う愛と相手の思う愛の違いに戸惑います。でも違いというのは自我の次元にしかないので、戸惑いの原因は愛ではなく自我にあります。

愛に近づこうとすると自我の問題が浮上してくるというのがその実態です。それで、ああもう、愛に近づくのは危険だからやめよう、と自我は思うのです。そうすると霊的前進が止まってしまいます。

インナーチャイルドの問題を探っていくと、子供の潜在意識の形成に多大な影響を与えるのはお母さんとの関係と言われます。その仕組みに怯えているお母さんがたくさんいますが、この学問はお母さんを助けるものであり、お母さんへの朗報に満ちています。

お母さんとお父さんというこの世の神が互いに愛のコミュニケーションをし、そしてその愛の無限性、つまりなにがあっても修復可能なんだ、ということを体現できればその責務は完璧です。なにがあってもの中身は小さな仲たがいや、形式的別離(離婚)、肉体的別離(死別)をも指しています。

愛はどんなかたちの中にも存在しうるものです。

言い換えれば自分が幸せでいることは誰かを幸せにして、その幸せは無限に増殖していくものなんだ、ということです。これが、意識の仕組みの最上部の法則です。神の真理と言えるし、愛の法則とも言えます。

コミュニケーションの原型はこのようにして、いつも最小単位の中に最も色濃く存在しています。ですから何と言っても愛の学びは家族の中にあります。

しかしながら幼少期にとても満足して育ったから、それを自分の家庭や周辺にそのまま広げていけるかと言えばそうはいきません。その時点では自分の知覚、つまり自我なりの快適、安心こそが幸せだと認識されているからです。例えば結婚して夫が子供が思うようにならないとなると途端に平和は崩されてしまいます。

自我の知覚がこれだと思ったものを他者にも採用すれば、それは自我の押し付けとなり、摩擦を生みます。知識が増えると摩擦を恐れて、なんでもかんでも自分ががまんし、そしてがまんしている、つまり不満を持っていることも感じないようにするという複雑なブロックを持つに至る人も大勢います。

インナーチャイルドの問題はいつの間にか、幼少期の心の傷が問題の原因、と置き換えられてしまいましたが、実際は違っています。

自我なりの不安を手放すこともインナーチャイルドワークの目的ではありますが、同時に自我なりの安心をも手放す目的があります。

本当はそれは愛ではないんだ、ほんものはその奥にあって、みんなの目的はひとつなんだというところへ進むかどうかに進退がかかっています。

本当は何が起こっているのか、というところに立ち返ると自我は敵視をやめ、本当は愛したかっただけだということを思い出します。そうして初めて自我は、愛(神)に場所を譲ることを学びます。

また平安、幸せ、学びを自分だけのものとするなら自我の壁はもっともっと分厚く強固にしなくてはならなくなります。そうなった時、そこに神はいません。愛を自分の中だけに留めて置くことは不可能なのです。無限性は有限の中に留まらないからです。知識も技術も思考も感情も、意図して使えば愛の道具になりえます。私たちが神の道具になるかどうかの意志にかかっています。意志があれば神は使います。そのときすべてが神の訓練となります。

原則ですが、外側に見えているものはすべて、心の中で起こっていることなのです。見ないことでえられる平穏は起こっていることを無視しているにすぎません。

私たちが愛について学ぶというのは、変化することです。自我はこれに対していつも抵抗しているということを覚えておくとわかりやすいかもしれません。永遠不滅の平安は神と完全に一体になった時にしかありえません。もうこれがそうだよ、という心の声は、変化の初期の自我の抵抗が言っている言葉です。ですから安心して前に進み、これが幸せかも、と思ってもどんどん変化して(手放して)いって大丈夫です。先は無限にあります。

霊的成長というのは、自分は何も知らないということに気づき受け入れていくことなのだと思います。でも進まないとそれすらわかりません。だったらこのままでいいやとなったらそれが自我の抵抗です。その抵抗に気がついて、仲良くしてあげてください。自我の抵抗は時に、あなたをだましてでも自分の存在価値を主張します。これで大丈夫、問題ない、と言ってきます。

でも魂は決して満足しません。

すべての魂が一つであった、というゴールに行くまでは。

幸せも不幸をもあなたが自分だけのものにしている間は魂は止まりません。

どこまでも交流を続けなさい。すべての者が愛に戻るまであなたは何度でも生まれ変わってはその道を歩み続ける。なにも恐れずその道を生きなさい。

神はそのことだけを言っているのです。

すべての人への呼びかけ

瞑想のちからというのは本当にすごいんです。

瞑想を身近にしていただきたくて、定期瞑想会を毎月3年間行っていました。

誘導瞑想をして、ご参加者のみなさんにシェアリングをしていただく、という形は、考え抜いたわけでもなく自然に「起こり」ました。

毎回毎回、奇跡に直接立ち会うようで、みなさんからも「このシェアリングが聞けるのがすごく楽しみ」という声もいただいていました。

すごい、すばらしい、というお話ばかりでなく、時には心のうちにあったネガティブなエネルギーが浮上して苦しいとお感じの方もいらっしゃいました。

シェアしていただくことさえ許していただければ、必ずそれも昇華することができました。なによりそういったお声を、自分のこととしてみなさんが受け止めてくださり、時には「自分にもこんなことがあった」とお話くださったりして、本当に愛に満ちた美しい場となっていました。

瞑想のやり方を学ぶとか、経験を積む場、という次元を通りこして、あの場はいつも完全な導きの中にありました。

あの場には私にとっては、これまで個人セッションを重ねてきて神から直接学ばせていただいたことが詰まっています。私からの奉仕であり、私へのごほうび(証し)でもあります。

 

瞑想には明確なメカニズムがあります。ヒプノセラピーも、レイキヒーリングもそうです。ただ、すべての人の内に完全な「場」があるという概念抜きですと、その原理は説明しきれません。その完全な場を内なる神と私は呼びます。

完全な場は、肉体に個別的に備わっているのではなしに、一つにつながっていて同質です。これは宗教や思想における神ではなく、意識エネルギーという次元における神です。ワンネス、いつなるもの、などの言葉も本来これを言っています。

本当はそれは心という場にしか存在しません。ですが多くの人が心というと「自分の」というふうに想起し、肉体の中にある、個別的な心をイメージしてしまいます。

私の感情私の感覚が私の心であるというふうです。曖昧で不安定で信用に値しないもの、と思われていることでしょう。

でもそうではなく、心とは「神の坐する場」を指します。

 

人はみな幸せを望んでいます。幸せは心が望むように満たされることです。

でもそこで、心とは個別的なもの、と設定していれば幸せは——よく言われるフレーズですが——人の数だけあるものです。

でも本当は、心は全部つながっています。ひとつしかありません。

ですから、あなたの幸せは私の幸せであり、私が癒されることは、あなたが癒されることになるのです。

誰かが癒されれば、みんなが幸せになります。

そして、みんなが幸せでない限り、私は完全に幸せにはなれません。神も喜ばれません。

 

瞑想は心とつながるためにします。

私はヒプノセラピー(私は2人でする瞑想と呼んでいます。ヒーリングもカウンセリングも私にとっては同じです)を通して、そのことを実際に繰り返し体験しその意識のシステムと作用を目の当たりに観てきました。

 

瞑想は「神の一つの心の中で、複数の心を一つにする」直接の行為です。

それを認識することを覚醒すると呼ぶのであれば、ヒプノセラピーほど直接的にそれを形にしたものはないかもしれないと思います。

また本来瞑想が師弟の間で学ばれてきたものであるということにも頷けます。

そこには信頼があり、二つの心が一つになって最も崇高な目的を目指すという形がそこでなされています。

ヒプノセラピーは師弟ではないにしてもリーダーに信頼をもっていただいて瞑想をリードすることで、その変化の時間を奇跡的に短縮し、時間を超越した覚醒をもたらします。リーダーの内なる仕組みへの確信の深さが、その結果を相応のものにすることは否めません。

 

瞑想の最初には(奇跡の始まりにも)まず浄化が必要とされています。

浄化というのは、私たちが自分をからだだと認識している強固な誤解を和らげる作業です。

肉体が体験したすべてを自分だと勘違いし、心の傷は実在し、その影響を受けて自分の人生が今の結果となっている、という思考システム、それが自我の思考システムです。

攻撃的であるだけでなく、防衛的であることが密かに攻撃しているのです。

優しくて思いやりがあって、傷ついていて、わかってもらえないと悲しんでいることも自我のシステムの中で誤解しているのです。

 

インナーチャイルドワークというは人生の初期、生きるための習慣を吸収する段階で身に着けた誤解を解きます。

これがないと生きられないからと受け入れた愛以外の、すでに学びを終えた自我の習慣を手放し、受け取っていた愛をもう一度意識的に受け入れなおします。

それによって心に真の愛ー真我、魂、内なる神の愛、聖霊ハイヤーセルフ、高次の意識ーを受け入れるスペースを確保し、本当の自分に戻る、つまり神の創造したままの自分に戻る準備をします。

 インナーチャイルドワークの全貌はこれに尽きます。

ヒプノセラピーは一度受けるだけでも心が軽くなり楽になられる方がほとんどです。

それだけで満足していただけることが多いのです。

ですがもし望まれるのであれば、継続し、ハイヤーセルフのセッションを受け続けてください。

ハイヤーセルフの初回は人生の指針全体を網羅しますが、その後はもっと直接的に、あなた自身が直接内なる指針とつながれるように超越的に覚醒を促します。

まずは浄化のためにインナーチャイルドワークと過去世ワークを最低一度ずつ受けていただくことをお勧めしていますが、魂の旅の本当の目的は、浄化が進むほどにより明確になるからです。

浄化というのも、一度すればおしまいではもちろんありません。

からだには継続したお手入れが必要ですが、心にはもっと必要です。

物質的なお手入れは復元に留まりますが、心はお手入れすればそれ自体が探究になり、覚醒は無限に、つまり完全なる神と合一するまで続きます。

飽きることがありません。

人間の心はそうなるように創られています。ですから低次の達成にはすぐに飽きてしまいます。欲を満たしてもきりがなく、更に大きな欲を抱くようになります。そういったことが例えば環境破壊や根深い争いにつながっています。

でもそれは自我のシステムによる誤った目標設定なのです。

本当の目的を思い出すことができれば、人間の無限の創造力を互いの豊かさ、互いの幸せのために、全体の本当の利益のために生かすことができるようになります。

ひとりが自分を癒し、自分を幸せにする旅は、そのゴールに直結しています。

癒しは個人の心の傷をもちろん癒しますが癒すべきは自我全体なのです。

 

開かれた心で内側とつながり、その延長にある他者の心との開かれたコミュニケーションこそ、愛が伴う行為です。真の心の交流に愛が介在するのです。

神はただ完全な姿で在るものですが、愛は体験されるべきものです。

体験なしに知ることはできません。

 

瞑想はその入り口であり、道すがらの地図であり、指針であり、ゴールでもあります。

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