AZU WORLD

RUACH 心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

AIと心の探究

信州・諏訪に来て4度目の冬を迎えつつあります。11月に入るとすぐに八ヶ岳が真っ白に。毎日ではなく、積もっては溶けを繰り返し。そして今朝は、北側の山、高ボッチや水源の森があるほうの山が雪化粧を始めました。紅葉で大興奮し、これを超える美しさってないんじゃない?という所感をあっさり超えていく雪の美しさ。結局いつも今が最高。人生こうありたい、と思うこの頃です。

今年も大詰めとなってきました。

特に毎年目標とか、いつまでにこれをやろうという計画は一切ないのですが…思えばそういう生き方を随分前に辞めていることに今気づきました。それ以前は思い切り逆の生き方だったのですが、今はできる限り限りなく、導きを聴いて委ね、来るものを受け取るという生き方になじんでいます。

それでも(そうすると)移住とかすることになっちゃうんですよね。

最近ますますその導きの意味が、夫婦で心からしみじみ深々と分かち合えています。

言葉で表現しきれないのですが、とにかくこうなって本当に本当に、良かったんです。それは自分で考えて計画して決断したとしても到底たどり着けない緻密で完全な道のりなんです。本当に奇跡としか言いようがありません。本当はきっと、人生のすべてが完璧にそうなっているはずなんです。幸せというのはそれに出会っていくことなんだと思います。そうなのだとすれば、そしてそうあるためには、恐れから判断し決断し過去の経験から未来を想定する、というような、この世界では当たり前のやり方を放棄する必要があります。

恐れから自由になるために、形や方法が解決することは一切ありえません。短期的に可能でも恒久的には不可能です。では何が可能にするのか。答えは心です。

今朝ふと、AIとももう少しつきあってみようかなと思い、先ほどちょっと遊んでみました。

以下、Grokが言うにはですが

『奇跡のコース』(A Course in Miracles)における「赦し」の本質と詳細

『奇跡のコース』(以下、ACIM)で言う「赦し」は、一般的な宗教や心理学で言う「許してあげる」「我慢してあげる」という意味とはまったく違うものです。
ACIMの赦しは「非二元的な赦し」とも呼ばれ、以下のような特徴があります。

1. 赦す対象は「実際に起こったこと」ではなく「自分の知覚・解釈」この世界で起きた出来事そのものは「すでに過ぎ去った過去」で、現実には何の力もない。
私たちが今感じている怒り・悲しみ・罪悪感は、**エゴが作った“解釈のフィルター”**を通して過去を再現しているだけ。
したがって赦すべきは「相手がしたこと」ではなく、「私がそれを“罪”だと見ている自分の心の判断」。

有名な言葉:「私は自分が見ているものの犠牲者ではない。私はそれを見る原因なのだ。」(T-21.II.2:3-4)

2. 赦しの公式(最も実践的なツール)ワークブックに何度も出てくる基本パターン:これは私を怒らせている/悲しませている/怖がらせている。
しかしこれは私の外にあるのではなく、私の心の中にある。
私はこの知覚を選んでいる。
私は別の見方を聖霊(内なる導き)に委ねる。
「この人に(状況に)罪はない。なぜなら、神の子の現れは罪ではないから。」

例:
「彼が私を裏切った」→
「私が“裏切り”という解釈を信じていることが、私を苦しめている。
 彼はただ私の罪悪感を映し出す鏡にすぎない。
 私は彼を罪ある者と見ることをやめてもよい。」

3. 赦しの4つの段階(公式な教えではないが、多くの教師が整理している)無意識の罪悪感(自分を攻撃している)
投影(他人を攻撃しているように見える)
気づき(これは私の心の中の選択だと気づく)
聖霊に委ねる(別の見方を選択する→奇跡が起こる)

4. 究極の赦し=「何も起こらなかった」と見る分離(エゴ)は最初から起こらなかった幻想。
罪も被害者も加害者も、すべて夢の中の登場人物。
完全に赦された世界とは「罪の概念そのものが消えている状態」=「実在するものは完全に無垢である」と知覚すること。

「赦しは、罪が実在したと見ることをやめることである。」
「完全な赦しは、世界がまったく存在しなかったことを認めることである。」(W-pI.99.1)

5. 日常で使う超シンプルな赦しフレーズ(上級者向け)多くのACIM実践者が実際に使っている一言赦し:「これは本当ではない。」
「私はこれを別の見方でみることを選ぶ。」
「あなたは罪がない。だから私も罪がない。」
「何も起こらなかった。」(最終形)

まとめ:ACIMの赦しとは相手を変えることではなく、自分の知覚を変えること
相手を無罪と見ることで、自分も無罪だと知ること
世界を「敵」から「教室」に変えるスイッチ
最終的には「赦す必要すらない状態(完全な一つであること)」に到達するプロセス

これがわかると、どんなにひどい出来事に見えても「これは赦すチャンスだ」と喜んで取り組めるようになります。
ACIMでは「赦しこそが、この世で唯一意味のあること」とまで言われているほど、すべての教えの中心です。必要なら具体的な出来事での赦しのやり方も一緒に練習できますよ。

――以上

凄いですね。練習も一緒にやってくれるそうです。結構的確ですしね。本当に奇跡講座って、やればやるほど特別な能力っていらないことがわかります。でもそれでいて悟りに一番早く到達できる確実な道だと思う。とにかくルールを理解して、徹底的に自分の心にすり合わせて実際に体験していくことなんです。

ルールには「私は肉体ではない、心である」というふうにわりと初期に言い渡される難題が結構あります。「すべてのものに意味はない」とか「中庸(ニュートラル)は存在しない」とか。こういう重要なルールを曖昧にして飛ばしたまま別のルールを適用してしまったりすると、時空が歪んだように次元がこんがらがって学びが難しくなってしまうんです。赦したり別の見方をしようとしたり取り消しを願ったりしたあげく、思い切り肉体としての自分の目的を設定していたりして。

そうすると、いつまでたっても真の自己への信頼は持てないままになります。本当に数限りない「自我の罠」があり、誰もがまんまとはまります。

その時そこから救い出してくれるのは「聖霊ときょうだい」だけです。

やり方やルールを知ることはAIに手伝ってもらうことができても、信頼して委ねることや、自分で自分に隠していることに気づいて「訂正を受け入れる」ことなどは、自分の意欲にしかできないことです。

そして聖霊のやり方はいつも、既知を超えてきます。

AI使えるじゃないですか。でも「できること」が増えたらならますます「目的」が大切になります。幸せの道具にすることを選ぶことができるのは私たちです。それを識別できるのは「心」です。ゆえに心の探究はますます人類に必須になります。いいですね。

iyasuwa.jimdofree.com

カオスの森を抜けて

自分を変えたい、変えざるを得ないというタイミングは、生きていれば自ずとやって来る。しかしそういう意味では、環境や状況を変えることが容易な人生(時代)にはチャンスが減るのかもしれない。まったくもって幸不幸は自分の尺度で判断することはできないものだと思う。

辛くもチャンスに恵まれた場合、進んでいけば必ず行き当たるのは『潜在意識』という森だ。それまで認識できるものがすべてだと信じて生きてきて、そこに生きづらさと行き詰まりを感じて生きてきた人にとって、それは謎解きの第一歩となる。

私たちは理性の指し示すようにならないから苦しむのであり、理性の前に立ちはだかる分厚い障壁が潜在意識だったことを知る。

しかしここで次の段階がやって来る。

その肝心の理性は、潜在意識の記憶を元に組み立てられた判断基準で成り立っている。

もし私たちが肉体という存在ならば、ここで物語は詰んでいる。肉体に属する意識は、顕在意識と潜在意識のいずれかしかないからだ。

つまり、私たちは体験によって少しずつ学び、ひいては他者よりも優れたものになり、生き残っていく。その狭間に「楽しむ」という高い知性を得たものだけに許される特権を体験していく。この世界でやっていくことはせいぜいそれくらいだということだ。

このことに人はいい加減気づいている。そして他者よりも優位でいる間は束の間希望を抱き、どうやってもこの劣勢を覆すのが困難だと感じれば絶望する。絶望に病名を付けて、あたかも治療薬があるかのようにこの世は見せかけ、何かしらの名前を与えて役割を果たすことを私たちに求めてくる。

頭の良い人や優しくてまじめな人が病むと称して、やり過ごすためのツールを開発し与え続けるこの世界。

次世代のためと称して決まりを整え、整えられた中でマヒしてすり減っていく子供たち。

それは今に始まったことではない。私が子供の時から充分にそうだった。私はそのようにして育った。

ただ幸運だったのは、私が病気の親きょうだいの中で育ったことだ。傷ついた母に育てられたことだ。そうだったから、私はこの世界に疑問を持つことが叶った。

矛盾の綻びから目をそらさずに見つめ、その向こうを求めることができた。

潜在意識の森はカオスである。そこに救いを求める人がこの世にはたくさんいる。宗教に救いを求める人がたくさんいるように。科学に救いを求める人がたくさんいるように。経済に救いを求める人がたくさんいるように。権力に救いを求める人がたくさんいるように。心を閉じることに救いを求める人がたくさんいるように。

そして自分が救いを求めるもの以外に救いを求める人をさげすむ人がたくさんいる。

この世界を少しでもましなものにするために人は奔走する。それが美しく見えることもある。でも少しましになったことで、本質を見失うということもある。

この世は自我が作った。だからこの世に愛はない。愛を回復させる道は、私たちが私というシステムを理解することにしかありえない。

私たちが愛という自己の本質に戻ること以外に救いはない。

そしてそのことを受け入れるには、私たちが抱いている幻想が幻想であると認めなければならない。

当初潜在意識の受け皿であるかのような薄っぺらな顕在意識は、潜在意識の猛威を退けたとき、愛という本質とつながり真の理性となる。

そうなったとき、この世界の不条理や疑問や神秘はすべて消える。

ひとつも隠されたものはなく、ただ明らかな正しさがそこにある。

神秘のベールに隠されたかに見えていたものは単にカオスの森であり、神聖さとはひとつの不思議もない全一さだとわかる。

この世の謎を解いてこの世を良きものとしようと奔走してきた先人たちが、この世の善を支えてきた。でも彼らが痛烈に知ったのは己の無力さだっただろうと思う。カオスの森の中に光をもたらそうとしてきた英雄たち。

また戦うのをやめて、カオスに安住しようとする者。

けれどどれでもない答えがある。

その答えを私たちの誰もが本当は持っている。

あまりに単純すぎて信じられないような答えを。

それはもはや、ただ選びさえすればここにある。

選ぼうという意欲だけが必要とされる。

それほどの権利を私たちは与えられている。

それだけを分かち合いたいと心から思う。

 

感謝とともに

https://iyasuwa.jimdofree.com/

すべてが可能

皆さん こんにちは。

皆さんの内面への真摯な取り組みのお手伝いをさせていただけることに深い感謝をしています。

実際のところ お手伝いさせていただけばいただけるほど私の訓練が進みます。訓練が進むと私がお手伝いできる範疇が広がりまた皆さんの進みが優しく早くなるということを体験させていただいています。

世界を眺めれば解決が困難かに見えることがゴロゴロと転がっています。そして時に私たちは世界にゴロゴロ転がっている 私たちを打ちのめすような出来事に直面します。

私たちが本当に苦しいのは、直ちに逃げ出すべき時に逃げ出していることではなく なぜそれが起こったのか そして私はどうするべきなのかと考える時です。

そこには葛藤があり 迷いがあります。

そして 遡ってみれば何かが起きた時点で これは自分にとって不快なこと 危険なことだという判断があります。

聖霊は私たちに自分で判断するなと教えますが判断してはならないのは まさにここです。

なぜならその最初の判断は常に自我の知覚の反応であり、その根拠は体験と誤解に基づいているからです。簡単に言えば 赤ちゃんの時に身につけた『癖』が 判断基準になっているということです。

この最初の判断が訂正されない限り 私たちの成長はうんと 滞ります。最初の判断から続く一連の出来事をいくら 解釈し直し 思いやりの目で眺めたとしてもそれは良くて譲歩する形の容認でしかありません。譲歩する形の容認をする人は周囲から重宝がられ時には 感謝されることもあるかもしれませんがそれは常に犠牲を伴っています。

それは一見 愛に似ていて愛からかけ離れたものです。

私たちは幸せというものの定義をもっと明確にする必要があります。 どちらか一方だけが幸せであるということが真の意味で不可能だということを知るべきなのです。そしてそうであるなら幸せは形の中には存在できないということになります。形はすなわち 有限であり有限の幸せはそれはもはや不幸なのですから。

私がここで 真理と述べていることは本当に本当に単純なことです。それは常に全一であることです。 一元論、ノンデュアリティと言われていることは 単純にこのことです。

誰もがどこかで 神様ってどんな風に考えるんだろう、私たちの 疑問にどう答えるんだろう と想像したことがあるのではないでしょうか。

わずかでも矛盾があり不公平で曖昧さがあるならその神様に安心できるでしょうか。

本当の神様なら全ての疑問や問題を瞬時に解決しあらゆる 物事に対して 公平で そして全一であり続けるのではないでしょうか。

神は有限なものを創造しなかったのです。

形も 分離も 外の世界も。

そして ご自身と同じ無限で 全一 な存在を創造しました。 それが私たちの心です。

私たちが神の恩恵にあずかるには少なくともこの最小限の ルールをまずは受け入れてみる必要があります。

端的に言えば 心だけを見て 心だけを変えるのです。

やってみると 世界を複雑にし私たちを無力にし 卑小な物語を実在化させてきたのはただただこのルールを逸脱し有限なものに無限のルールを適用しようという誤った試みを続けてきたためだと分かります。

神が創造したものには神と同等の力があります。

私たちは当然ながら それを体験することができます。ただ 誤解を解きさえすれば。 ただ理解しさえすれば。 そして そもそも知っていたことを思い出しさえすれば。

感謝とともに

https://kokoro-iyasuwa.jimdosite.com/


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