AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

こころを見つめる 神を見つける

今日のの空は黄砂が多いみたいです。煙っています。 それでもプラーナはいっぱいに満ちています。 最近では金色の網目のオーラはキリスト意識と呼ばれているものなのでは、と 考えるようになりました。 網目のオーラは一説では第7層のオーラと言われていますが 人体に関係がなく充満しているものなので オーラを生体エネルギーと捉えるとするなら 第7層って関係あるの?見えるのはまあありがたいけど・・ というような程度の存在なのではと思います。 私も金色の網目が見え始めて数年ですが、 とにかくとても高い次元の光だ、という風に思い 寄り添って感謝するに留まっていました。 なぜ次元が高いと思うかというと 深い瞑想に入り、内なる神と繋がるほどに それははっきりくっきりと表れ 時にその網目がぎゅーーーっと凝縮されて大きな金色の塊になったり それがいくつも表れてぐーっと迫ってくることがあり そうしたときの神々しい、聖なるものに触れた感覚は例えようもないからです。 マスターやアバターの出現と同じような感じですが 私の目には金色の網目が毛糸だまのようにまるまったものに見えます。 体感もオーバーライティングと呼ばれている 重圧が乗っかっている感覚があります。(最近はあまり感じなくなりました。慣れたのかな) それで家にいてリラックスしているときはほとんど この網目とともに暮らしています。 壁と天井と床が白いので、黄色い網目模様がくっついているように見えます。 洗面台はしみがあるのかと思ってこすったことが何度かあります。 でも幸せです。 こんな風に暮らしていて少し前、 もしかしたら私は神と出会っているのかもしれない、と思いました。 ヨガナンダやダスカロスのいうエネルギーや宇宙の仕組みの中でいうなら この網目の光はなんだろう、と思いました。 もしかしたらこれは、オーラの一部みたいなものではなくて 根源的なとても重要なものなんじゃないかな、よし、ではそう捉えてみよう、と思いました。 それまではこの網目がそんなにすごいものなら なにかしらの働きかけがあるだろうというふうな感覚で捉えて待っていました。 でもそれはただそこにずっとあり 見え始めて以降は私がだいたいどんな状態であろうと 消えてしまうこともありませんでした。 これは実はすごいことを私に教えました。 私たちがどんな状態であろうと それはそこにある、ということです。 当たり前に聞こえるかもしれませんが 今多くの方がスピリチュアルの教えを学ぶなかで 自分が招いた、引き寄せた、ということに罪悪感を強めている方が多いのです。 でも出来事が起こるたびに罪悪感を感じるなんて本当に本末転倒なことです。 ジャッジメントを手放す、なんて言葉で言うのは簡単ですが ジャッジメントの連続だからこそ私たちは (都合の)悪いことを常に恐れ(都合の)良いことだけを歓迎しようとします。 でも神と愛は、そんなこと気にしません。 私たちがばたばたとしている隣で待機してくれています(笑)。 でももしそこに待機している神に 手伝ってください、とお願いしたらどうでしょう。 神は私たちのばたばたをなしにしてくれるわけではないですが 私たちがのびのびとちからを発揮できるように助けてくれるはずです。 ばたばたを解きほぐして片付けやすいように整頓したり (波長が上がると理解力が増します) 「起こっていることはすべて正しいんだ」という安心感を与えてくれます。 網目のお話に重ねますと 網目をただ眺めていても良かったのですが それを神の愛(意志)だと私が意識することで 神に介入していただけるようになるのでは、とある日気づいたわけです。 それで、この光を通してヒーリングをお願いしてみると これまでの何十倍どころではないパワーを感じました。 私はこの光を根源であってすべてである光だと認識しました。 レイキや瞑想を通して、ここにつれて来てもらったのだ、と感じました。 神とともにあると、日常の捉え方が変わります。 先ほども触れましたが多くの人が 正しい選択ができているか、ということを気にします。 過去の間違った選択によって、間違った場所にいるのではないだろうか、と恐れ その結果今のような不幸があるのでは、という風に。 ですが、神の在り方をお手本にするなら (この因果律の世界において)起こっていることはすべて正しい。 今からする選択も最善です。 その「信頼のこころ」の中で生きる人は「幸い」です。 そしてその信頼こそが私たちの「今」を作ります。 私たちの思考の理解の仕方とは違っていて 今この発しているエネルギーの質こそが今を形作っています。 ですから過去の因縁によって起こる出来事は起こりますが それをどんな質感として捉えるかは自由なのです。 お釈迦さまは肉体としての人間は「生老病死」の苦を避けることができないと知り だからこそどのような状態であれ人が幸せであることができる道を示しました。 病気にならないように努力する姿勢は大事でも 病気は敗北ではありません。 肉体は病気になりえます。 でも病気でも人は幸福でありえます。 本当は関係ないのです。 なぜなら私たちが苦に縛られた肉体という存在ではなく 霊(スピリット)という意識であるから、です。 意識こそが私であるという認識を私たちのこころが受け入れ教化されると 私たちは幸せでいることができます。 それは真実だから私たちを満たすのです。 網目が見えなくても そうなんだな、と受け入れて生きることでそれを体験できます。 今日もすばらしい一日を。


ブログランキングに登録しています。 クリックで応援よろしくお願いいたします。
公式サイト→トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピー

AZU WORLD©2002-2023