前々回の日記の続き。 私が手に取った本は、 エドガー・ケイシーの人類を救う治療法 エドガーケイシーのリーディングについて書かれた本でした。 それまでの私は、 「このまま人生を送っていくのはあまりに過酷で それにつまらない。 私が希望を持って生きていくには何か(何もかも)が足りない。 この世には何かもっと、こころにフィットする何かが在るはずだ」 と感じていました。 私は芝居をやっていると、本当に魂が自由になることを知っていました。 でもそれは、芝居ならなんでも良かったわけではなく ある価値観の中に居る時自由だったということです。 それは、「神聖な場」であるという意識です。 私は玉川大学の演劇専攻で基礎を学びました。 そこで学んだのは、芝居は魂だ、ということです。 実際、授業で教授からそう教わりました。 そして、人が魂というものをむき出しにして取り組む「場」が 非常に神聖であり、 そこに踏み入る時、どんなに繊細でも過ぎることはないということ、 そうした状態でそこに居る人に敬意を払い思いやることの大切さ、 またそうした場で培われる人同士の絆、 そして互いがそういった意識を持つ「場」を共有することの心地よさ 自由さ、崇高な感覚を体感していました。 ですから、芝居をしていればそういった世界で生きていけると思っていた私は 社会に出て相当なギャップを喰らいました。 一般社会ではほとんどそういった価値観は通用しなかったし (バブルのころですもん!バブルの!) 求められてさえいないように当時の私には感じられました。 世界の誰からも!というくらい。 ですから当時の私は、自分の無能さと同じくらいに世界を憎んでいました。 当然のことながら。 宗教や自己啓発といったもののお誘いも たくさん私の元にやってきました。 大学はクリスチャンの学校で 礼拝は大好きでした。 いろいろと齧ってみましたが どこかバランスを欠いているように感じ、ゆだねる気にはなりませんでした。 あのころ次々にやって来るお誘いを私はよく逆論破して追い返してしまったりしていました。 私は周囲からよく、はまりやすい性格と誤解されていましたが 私の苦しみは、はまれるものがなかったことでした。 そんな私が、これは真実かも、と思ったのが ケイシーのリーディング(チャネリングによるアカシックの情報)にあった 「生命の仕組み」の部分でした。 今ではスピリチュアルも意識の仕組みもそこそこ常識になってきましたが 当時はスピリチュアルなんて言葉すら話す人はあまりいませんでした。 少し前にシャーリーマックレーンが アウト・オン・ア・リム という本を出してヒットしていたので 「兆し」はあったのですが そのころは自分のやっている芝居に夢中でスルーしていました。 当時は生活がスピリチュアルだったから必要なかったんですね。