15年ぐらいの付き合いになる幸福の木が初めて咲こうとしています^^
こんばんは。沖縄はようやく暖かくなったかと思うと、今日は若干暑いです。半袖短パンの方をみかけるようになりました。しかし我が家では、冷えを取るというテーマがありますので、靴下2枚、スパッツにパンツという、下半身二枚重ねを敢行しています。
心身の浄化には常に心がけているのですが、冷えについて突っ込んで見てみるとこれはエネルギーの世界の邪気というものと重なるところが大きいと思いました。実際、鍼灸をしている主人の世界(中医学)では病の原因を寒邪と言います。他にも原因となる邪はあるのですが、このへんは専門ではないのでいつか主人に書いてもらいたいです。ご興味のある方はご質問ください。
東洋医学を勉強すればするほどそうだと思うのですが『これにはこのツボが効く』とか、最近よくある『この症状はこういう意味(メッセージ)』などという見方は単純すぎてなんとも言えません。私も昔はそういうのオタクかというほどの耳学問読み学問好きだったのですが、更に追求していくと結局すべては心に結びついているというわかりました。そして東洋医学でも各邪の更なる原因は心の乱れ(心のエネルギーの乱れ)にあると言います。
それは人間がスピリチュアルな存在、ということと繋がっています。心を更に細かく見ていくと意識の仕組みに行き着きます。人間は肉体とそれに付随するものだけの存在ではなく、無限である意識を本質とする存在だというのがスピリチュアルという世界観です。
私がスピリチュアルのワークという仕事を始めた頃は、スピリチュアルという言葉は普通用語ではなかったのですが、今はスピリチュアルという用語がひとり歩きしていて特殊な能力を軸とする不思議な世界を指し示すようになっているように見えます。確かに目に見えかたちになる世界だけを基準に見た場合、その常識を超える不思議さは存在します。けれどそれは、ただ私たちが仕組みを知らなかっただけのことです。化学反応の実験だって、仕組みを知らなければ手品のように見えます。スピリチュアルの世界はとても科学的で、迷信的なものの仕組みをも解き明かしてくれます。私が好きなのはその点です。見えていなかったものを見えるようにしてくれるのです。
最近振り返って思ったことがあります。私が10年以上この仕事を続けてこられたのは、この仕事が普遍性を持ったものだからだだということです。例えば、自分がスピリチュアルな存在であるということを自覚していようがいまいが、前世を信じていようがいまいが、私のワークは機能します。幸せになりたいと願うすべての人に役立てるはずです。すべての人には感情があり、感覚があり、思考があります。そして人間は肉体がおとなになった後の成長は外側に目を向けるのが一般的です。仕事の成果とか、財産が増えるとか、家族が増えるとか、そういう繁栄が一番のしるしになってきます。ですが本当の成長や前進というものは内面でしか測ることができません。
また外面的な成功の多くは、他の人間との関係、世に言う人間関係の問題と関わります。多くの人が自己実現には個の才能や能力が関係すると思っているかもしれませんが、本当は人間関係であり、その原因は自己との関係になります。内面の問題になります。このように外側の問題は自己の内面に集約できます。
また、人生における成功というのは結局のところ、内面の満足とその満足に対して還す感謝による奉仕で回っていきます。これは純粋なエネルギーの循環になり、その循環は繁栄という副産物を生成します。しかしかたちだけ、見せかけの満足、感謝の循環はどこかで破綻してしまいます。
人生はどこまで行っても、自己との付き合いであり、世界観というのは自己認識であり、追求していくには神という、霊の理想による導きが必要になります。そういった究極のお手本というものを人間は心の中心に見出す能力を与えられているのです。
最初の冷え取りの話に戻りますが、私たちはとても微妙で絶妙なバランスの上に存在している、微妙で繊細なある意味奇跡的な生き物です。心の在り方(持ちようとは違います。)がからだを形成し、周辺の世界も染めてしまいます。通常動物はもう少し安定した状態を保てると思うのですが、人間はそうではありません。心は不安定で変化し続けます。そしてこれでいい、というものがないのです。
まず直立歩行した時点で生き物としてのバランスを崩しました。腰は負担を背負い、足は冷えるようになりました。でもそのおかげで人間はより探求するようになったのです。より良きものについて。この身体はとても不自由なおかげで私たちは想像力を豊かにしました。空を飛んだり、未だ見ない世界をイメージできます。この不安定な感情は、共感によって他者をより深く知ることができます。そして愛することができるのです。
ですから、身体をケアしてあげることはとても大事ですが、完璧である必要はないと私は思います。それよりも、完全で無限であるものを内包する内なる自己にぜひ親しむと、人生はすばらしいものになります。身体はその入口であって魂を運ぶ乗り物でありなにより内側にあるものを実感し表現する大切な無二のものです。この世にあってなにを実感して生きるのかをしっかり選びたいものです。