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徒然の回想

高校生の頃、進路を決める時に 自分は何者か、って問いませんでしたか? だんなさんに言ったらそんな問いは微塵もしなかったと言ってましたが 私はかなり深刻に問いました。 それで、将来の準備のために必要な勉強は自分にとって何か考えた末、 哲学、神学、演劇のどれか、と答えを出しました。 本当は神学、というのに一番惹かれたんですが 大学の神学科に入るには条件があって 司祭になる人に限られていたようでした。 哲学に関してはその時既に 頭でっかちの哲学だと習うのやだな、とか考えていて 本当の真理というものを大学では教えているんだろうか、 などと考えていた記憶があります。 それ以前に当時はひどい鬱状態で 成績も急降下してしまい 見かねた担任の先生が玉川の演劇専攻の指定校推薦をすすめてくれて おそらく面接で「この子はあぶない」と教授のどなたかのアンテナにひっかかったか イエス・キリストの救済かその両方によって合格したのだと思います。 (貴重な指定校推薦枠いただいたのに中退してしまって本当にごめんなさい。) 中学までは私の走り去った後にお花が咲くようなステキな女の子だったはずなんですが(笑) 高校生のときは、あみんとあだ名されるほどの暗い子の代名詞になっていて 本当に死ねるものなら今すぐに死にたいと思っていました。 で、死ぬ度胸がなかったので死ぬのをあきらめたのが これまで人生で唯一の私のあきらめかもしれません。 大学の合格通知を家の階段で開けてみたときの救われた気持ちは 今でもよく覚えています。 地上に生きる許可を与えられたような安堵と不思議な導きと言いましょうか。 2003年にNYに滞在した時 私はそれまでの人生の重荷がゼロになるような体験をしました。 私の心身には実際に重さがなく、恐れもありませんでした。 過去もなく未来もなく、まさしく今にいる、ということがわかりました。 私は5番街のセント・トーマス教会に入りました。 はす向かいにはカトリックの大聖堂、セント・パトリック教会があり そちらの賑わいとは対称的にシックで閑散とした教会です。 私はただ祈りたかっただけなのでどこでもよかったのですが 席に座ると同時にどっと涙があふれて止まらなくなりました。 そして世に言う人生の走馬灯のような記憶の絵巻物が 早回しでめくられていきました。 最初は、苦しい人生だったけどNYに滞在できて すばらしい体験が出来たことに感激してるのかな、と思っていましたが その絵柄には一貫した関連性がありました。 それはそのときは気にも留めていなかったようで 後に運命の分かれ道になるような選択の場面の羅列でした。 大学の合格通知を開いたときの私もページにはありましたし もっとたわいのないことや、人生のかなり苦しい生活や、 その中にも思わぬ宝をみつけることになった場面など…。 私が必死で切り抜けてきた人生の選択の場面を 紙芝居のように見せられたようなかたちです。 それは、私の人生は私の主観だけではなく 何か別の視点があったのだ、と私に実感させる体験でした。 そう思ったと言うより、そうだからこうなった、ということが 自然にわかる、というような感じです。 「全部見ていたし、ところどころではちゃんとひっぱったり押したりしたよ」 とその紙芝居は伝えてきました。 「ほらね、ここんところなんてそうでしょう、知らないだろうけど」 というような感じです。そう、謎解きでした、あれは。 それで私は1時間か、もっとかよくわかりませんが 相当危ない橋を一人渡りきったつもりが ちゃんと命綱もついていたんだというような変な安堵とか 感謝というには率直すぎる機械みたいに泣き続けました。 魂は、すべては計画通りだと私に教えたのかもしれません。 なんにしてもあの時、私は今世をいったんゼロに出来たのだと 今振り返るとわかります。 最近になって、あれ、そういえば 哲学、神学、演劇、全部今も使ってるよ、と気づいて驚きました。 けれど今になって一番驚くことは 「平安というものがこんなにも楽しく面白いものなのか」ということです。 あの頃の自分が既に持っていたものは本当に多いのですが 平安のすばらしさ、創造性、という体験だけは 今の自分にしかわからないものです。


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