子供の頃からなぜか戦争映画に惹かれていた。 今まで見たなかで一番印象に残るのは 『TOMORROW 明日』だ。
長崎の、市民の日常を淡々と、リアルに描く。
ある女は出産し ある女は結婚し ある男は出勤し ある男は畑を耕し ある女は洗濯し 親類は式に参列し 子供たちは夏の日差しのなかで遊び
そして、ぴか、と光り、 そのすべては終わる。
あるものは吹き飛び あるものは蒸発し あるものは焦げ あるものは溶け あるものは燃えたのだろう。
しかし、すべては終わる。
今の世の中を見ていると、 この映画の途中にいるような感覚になる。
きっと前触れはたくさんあったけれど 誰もそれに気づかない。 そして、明日が来ることを 誰も疑わない。
私が子供のころから見る悪夢に こんな夢がある。
とても恐ろしいことが迫っていて 私はそれに気づいている。 でも誰も気づいていない。 私は逃げる。 恐れているのは私だけ。 やがてそれは本当になる。 私は怖くて仕方がない。 でも誰も気づいていない。 みんなに知らせられないことに罪悪感がある。 しかし気づいている私が一番不幸に見える。
そんな夢。
そういう察知する能力がきっと私にはある。 でも警告は早すぎると本気にされない。
1990年に、芝居の脚本を書いた。
世の中は便利で誰もがもっと便利な世界を求めていた。 その中で情報だけで戦争が起こっていた。 それを私は机上戦争と呼んだ。 だけど最後の核爆弾のボタンだけは本物だった、という話。
大衆は気づいていない、けれど、 感覚の研ぎ澄まされたある種の人だけが その異変、 秘密裏に行われている 情報と命の取引きに気づいている。
そんな中で、生きることを選ぶには 意識的に生きるにはどんな道があるのだろう、という話。
実に25年前のこと。 でも今、だいたいほんとのことだったな、と思う。
311を機に、原発反対が持ち上がってきたとき 私は戦争反対、と叫んでいたけれど 多分あれすらも早すぎた。 しかし今ではもう、既にいろんなことが遅すぎる。 いや、そうではない。 完全な今がただあるだけ。
私たちはとても危ない橋をみんなで渡っている。 何も知らずに明日を信じるのはたやすいこと。 しかし私たちに天が求めるのは 危険を承知の上で、希望を持ち、信頼して橋を渡ること。
そのために私たちにはそのための武器を預かっている。
それが自己探求である。 自己探求は神に通じる道だから。