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神の似姿

うちがゆれてます。風のちからで。 「あらしのよるに」って映画を思い出しました。 アニメ映画で、たまたまGyaoかなにかで見ました。 それが結構すごいおはなしでした。 あらすじはこんなです。 嵐の夜、雨宿りに入った古小屋の暗闇の中で出会ったオオカミのガブとヤギのメイ。2匹は、”食う者“と”食われる者“と言う立場を超え、友情を育むようになっていくが、それぞれの仲間はそれを許さなかった。そこで、追いつめられた彼らは群れを離れ、遠くに見える山の向こうにオオカミとヤギが暮らせる森があることを信じて歩き出す。だが、オオカミたちの執拗な追跡や山の上での猛吹雪に遭い、遂にメイが力尽き倒れてしまった。自分を食べて生き延びて欲しいと、ガブに訴えるメイ。そんなメイを守る為、かつての仲間たちに戦いを挑むガブ。とその時、ガブとオオカミたちを雪崩が飲み込んだ! 翌朝、山の向こうに緑の森を発見したメイは、雪崩から生還したガブとも再会を果たす。ところが、記憶を失っていたガブは、メイを捕らえ食べようとする。しかし、メイの必死の呼びかけでガブの記憶は蘇り、2匹は再び仲の良い友だちに戻るのであった。 (goo映画より) おもしろいのは、ガブとメイはどちらもオスなんですね。 これがどちらかがメスで恋愛ものだったら もしかしたらもっとメルヘンな感じで受け入れられやすかったかもしれない。 でも、それだけのお話になってしまったかもしれない。 この物語の純粋性が損なわれたかもしれない、と思う。 これは本能と愛について究極的な問いかけをしている友情、友愛のお話。 もし恋愛モノであったなら、あるいはどちらかが親でどちらかが子の立場だったら 本能の延長上でのお話になっていた、かもしれない。 惹かれ合う男女の本能、とか、母性と庇護とかいったエネルギーによって もっと見やすい物語になっていたかもしれない。 人間という生き物が 本能と理性、感情と知性とそれを超えた叡智というものを兼ね備えた生き物になったときから 私たちは葛藤を始め 己を超えて進むという冒険を始めたのかもしれません。 もし、友愛などという意識を持たないただのオオカミだったなら なんの苦しみもなしにガブはメイを食べて満足だったでしょう。 メイだって、食べられる痛さ以上に心の痛みを感じることはなかったでしょう。 私たち人間はそういった心情(愛もしくは苦しみと痛み)を 感じうる機能を備えています。 生存競争のためだけなら必要のなかった機能を。 ではそれはなんのためにあるのでしょう。 私は、それこそが神が自分の似姿をお創りになった、と言われているものだと思っています。 私たちは痛みや苦しみから解放されたとき そこに愛があることに気づくことができます。 けれど、だからと言って 最初から痛みと苦しみを感じない人間が 愛にあふれているわけではありません。 そもそもそこにあるべくしてある 例えば友愛を知るがゆえの苦しみや痛みを 己のものとして受け入れたときに 初めてそれを超えた大いなるものに触れることができる。 そこへ踏み込むことの偉大さや勇気を 私たちはいつも思い出さなくてはならない。 映画や演劇や音楽のような表現はそのためにこの世に遣わされたものだと 私は感じています。 心の栄養と言われる所以ですね。


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