こんにちは。
父が亡くなって今日で丸一ヶ月。初めての祥月命日です。
つい先日、週刊誌からの取材を受けました。朝、ピンポンとベルが鳴り、あれ、ご予約のお客さんと違う・・・と思うと、という感じ。 取材にいらしたのは、若くてかわいくて賢そうで奥ゆかしい感じの女の子で、この炎天下の沖縄にしっかりと正装なさっていました。
父の死について、まだかたづいていない問題がありますので一瞬緊張もしましたが、人間として向きあおうと覚悟を決め、取材に応じさせていただきました。
電車の中吊りにも見出しが出ましたので、変なふうに盛り上がるのかなとも思っていましたが、訃報のときとは違ってとても静かでした。私たちにひとときの静けさと安堵を与えてくださる神と人々のはからいに感謝しております。
記事には私のブログの、父の病気への描写の部分が引用されていました。客観的にそれを読むと、やはり悲劇的な感じがしました。しかし私の中に起こる不安というのはおもしろいもので、家族が嫌な思いをするのでは、という気持ちだけです。同胞を裏切りたくないというような感じでしょうか。父の名誉のためというのなら、病気は役者の(天才の)勲章だ、というような気持ちで胸を張れます。
私がブログに父の病気のことを晒すのは目的があります。以前にも書きましたが、統合失調症や躁鬱病は100人に1人ほどの人がかかる病気だそうです。その家族はと考えると同じような問題を抱えているご家族は全体の1割か2割、となるかもしれない。それほど社会に大きく関わっているはずの問題が共有出来ればもっと理解や解決へと道が開かれると思うからです。
どのような問題もそうなのですが、当事者が自分たちだけで抱え込んでいる間はものごとは好転して行きません。問題というのはたとえ世界で自分だけの問題だと思ったとしても、それは地上に、人類の課題として与えられたものと同等です。
私のところへいらしてくださるお客さまもよく「この問題だけはどうにもならないと思っていました」「墓場までこの思いを持って行かなくてはならないと思っていました」「自分のような悩みを持っている人がいるなんて想像もできませんでした」とおっしゃいます。そうでないと気づくことは、同時に神の光の下に差し出すことになります。
分かち合うために話し合い助けを求めること、という人間のコミュニケーションの原型、愛の顕現を人生の中でみんなで体験していけたらと思います。そのためにもまずはあまりに傷付いた自己は癒してあげる必要がありますし、まず、助かるのだということ、変われるのだということ、なにより、そのような問題に直面すること自体が霊的に進化する種を天から与えられているのだと気づいていただきたいと思います。
昨今のスピリチュアルが、人生そのものの価値や現実から分離した逃避的な快楽につながらずに、本当に人間を本質的全体的に救うための具体的な道標となることを切に願っています。
末筆ですが、私と父との関係の中には本当にゆるぎない愛と信頼があるということを日々感じています。それは生前にも会話の中で確認済みでしたが、実際そうだったと実感しています。今生でそうなれたことが一番の奇跡のようでもあります。父の溺愛のような愛情がいつも降り注ぎ、それを感じると泣けてきます。何度も何度も、それを味わっているところです。