「引き寄せ」という言葉もはやりました。流行ったおかげで、意識の仕組みの説明はしやすくなりました。
どんなことでもそうだと思いますが、新しい概念が認識され定着していく間には数々の誤解がつきものです。
インナーチャイルドについて、ヒプノセラピーについての誤解も、ひとつひとつ、本当のことを伝えていくことで、人が幸せへと近づいていけると思っています。
自分にとってもすべては未知で世界は恐れに満ちていました。でも、今は光に満ちています。
恐れの中で必死に努力と忍耐をしていましたが、その努力と忍耐を光の中ですることができれば、見える世界は違ってきます。
今のすべては引き寄せた結果です。それは宇宙の物理的な原理であるというだけです。私たちの意識の想念が今のすべてを創りました。
光に満ちている世界といわれると、光の中には悲しみや怒りや嫌なことは何もない、というイメージがありませんか。私はありました。というか、いつも絶好調の自分をイメージしていました。
同じようなイメージを持っておられる方は多いのではないかと思います。
恐れの中にいると、不調な自分というのはぎりぎりな感じで、すぐにでも社会や社会の規範から落ちこぼれてしまいそうな感じがしていました。ですからそうならないように必死に自分を律して、ほころびを取り繕って、それでたまった毒をなにかで紛らわすことで一生懸命でした。
生きるというのはそういう戦いだった気がします。そうしないとやっていられないし、そのやり方がうまい人が社会の成功者であるという感じがしていました。
そしてさらに、そういう戦いから降りるためには「絶対的な勝ち」を手に入れなければならないと、漠然と感じていました。
宝くじ当たらない限り、圧倒的な社会的勝利を手に入れない限り、えんえんにそのゲームから降りれないのだ、というような感じです。
しかし実際は、そのゴールはゲームを増長するだけだと今ならわかります。
この幻想は、社会の中で根深いのではないかと思います。その世界を人間の意識が作っています。
ですから、その「ゲームに勝つ方法」の情報はもてはやされても、その「ゲームから降りる方法」は流布されません。
もちろん私が求めていたのも過去はそうでした。
私が今見ている光というのは、光と闇のうちの光ではありません。
光と闇、というセットでの光は、本当の光ではなく、光が当たっている場所の光です。光源ではなくて、スクリーン上の明るいところ、という意味です。
ゲームで勝つことというのは、スクリーン上の明るいところにいたい、という意味です。
でも本当の光はそこにはありません。スクリーン上に作られた陰影は、明るいところも暗いところも同じものにすぎません。
ゲームではその明るいところと暗いところを行ったり来たりしています。もっとずっと明るいところにいたい、とみんなが願って、ゲームを繰り返します。でも誰かが明るい所に行けば、誰かが暗いところに行きます。それが地上のゲームです。
光源はそこから離れたところにあって、それらのすべてを照らしています。
光の中で努力や忍耐をすると言いました。スクリーンに映った映像を触ってもそれを変えることはできません。触るのはフィルムです。よく見える光の中で、フィルムをよく見て、そこに映し出されるものを理解し、そして光の導きに従いながら、不要なショットをカットしていきます。
すべての人にはその創造の権限が与えられています。その力は光源からきていて、その力を使うほどに全体の光の量は当然ながら増します。誰も闇に追いやられることはなく、むしろすべての人に光が届くようになるのです。
映し出された映像は満足のいくものでしょうか。
そうなるように、光の中で、光と対話しながら、作業します。
その作業が瞑想です。