自分を変えることには二通りあって、一つは周囲に合わせて自分を変えること。
もう一つは、自分のありたいように自分を変えることだと思う。
周囲に合わせて自分を変えるということは本当は不可能なことだ。
なぜなら周囲とは、自分の意識の内側の反映だから。
だから私たちは本当は自分のありたいように変えていくしかない。
その「ありたい」の中身に目を向けることが
自分を探求する始まりであり全てであると思う。
「ありたい」というのは欲求の一形態だから、当初私たちは自分の欲求に目を向ける。
自分の好き嫌い、本当は何を望んでいるのだろう、など。
それは思考ではなく、それ以深から来る。
潜在意識の出番になる。
潜在意識は一口で言えば体験の記録の貯蔵庫だ。
その体験とは、このからだを通して「感じたこと」
その実感の集積である。
そして絶えずその集積はある種の電波を発していて
その電波の周波数が近いものや合うものと引き付けあっている。
その電波が、自分の意識のエネルギーである。
私たちは会うべくして出会いを果たしている。
人、物、出来事、感情、思いなどと。
自分が出会っているもの、自分を取り囲んでいるもの、
そしてそれらの中に自分が見ているもの。
それが自分の今ある姿であり
私たちは自分の意識を変えることで
その「世界」を変えられるということだ。
そう。その知識は広がりつつある。
でも本当に全面的に自己意識に取り組み解体した人は、
人生をかけてそれをした人は少ないと思う。
自分はそのあるひとつのサンプルになろうと思った。
自分を取り巻く地獄に本気で決別したくなったときに。
それまでは、その地獄の犠牲者であればよかった自分が
その地獄を作っていた張本人だということを認め
ひとつひとつその原因に気づいて解体していく作業は
世界の逆転そのものだった。
しかもその逆転は、ある日青天の霹靂のようにやってくるものではなく
私の変化に見合った分だけ、つまり変化が実感になった分だけやってきた。
逆転した世界にだいぶ慣れて改めて世界を眺めていると
世界はとても狭い。
その狭い世界で、みんなが同じように人間の課題に取り組み
手探りで進んでいる。
みんなおおもとでつながっていて、自分の持ち場でふんばっているように見える。
自分がなにをどうしたいかわからないのであれば
自分が作り出した世界を眺めてみるといいかもしれない。
しかしそこで周囲に足りていないものを埋めよう、という選択は
冒頭の、自分を周囲に合わせて変える行為にあたる。
私は、なにができるかではなく、どうあるか、ということをいつも考える。
それは、自分がどんな電波を発しているか、ということであり、
自分のエネルギーがなにをしているのか、ということだ。
どうあれ、生きている限り、あるいは肉体を失くしたとしてもある部分では
私たちは創造し続けている。
宇宙の創造の一端である。
それは自分がこの世で得るもののみならず
宇宙の構成を変えることだ。
私たちの中身こそが、宇宙の成分だ。
その管理者という責務が、人間の本当の義務であり、権限なのだと思う。
自己意識の解体を進めると
潜在意識のさらに奥にある魂、内なる神が姿を見せるようになる。
本当の「ありたい」姿はそこまで行かないとなかなか見えてすら来ないものだと思う。