過去とはなんでしょう。
過去があって今がある、というのは物質においてはある意味そうです。
人間という存在にとって、過去とは記憶です。
今の私たちの心の中身は、その過去の記憶にいつも影響を受けています。
具体的に言えば、その過去の記憶が、今の出来事に反応して、一定の感情や感覚をもたらし、それを整理するために考えたり、ある行動を選択したりします。
それが積み重なり習慣となると、私たちは反応から選択までを無意識に行うようになります。
良し悪しにかかわらず、習慣は楽です。
あるとき、自分はいつも同じパターンを繰り返していることに気づいたとします。
そのパターンがもたらす結果が望ましくないものだと気づいとき、当然ながらその習慣を手放したいと願うでしょう。
しかしなかなかそのパターンをやめられない。
それは習慣だから。
その時どうしますか?
例えばヒプノセラピーはそういった手放しに有効です。
パターンが作られた最初の体験までさかのぼってそのパターンの成り立ちから必然性、またその時の切実な感情までを知り、さらにその時には解決できなかったしこりを解きほぐし乗り越えることろまでを体験できます。
つまり未解決のまま続いてしまっていた事態を完了させて卒業できるのです。卒業とは、もうそれにとらわれなくなるということです。自由になるのです。
お釈迦様は自由こそが悟りだと言っていますがある意味でその体験からの学びを悟ってしまうということになるんですね。
このように言葉にすると難しそうですが、自ら「意識の深みで感じきること」がその行程すべてを完遂させてくれるのです。不思議ですが、やってみるとそうなります。
私のスピリチュアル・カウンセリングのセッションではこのワークを凝縮して行います。丁寧に向き合えば、その気づきと癒しが一瞬にして起こります。
でも人の心理というのは(というよりそれがエゴつまり自己意識の特性なのですが)そういった変化に抵抗しようとします。
問題を解決したいと願う一方で、変わりたくない、受け入れたくない、手放したくない、と力むのです。
つまりそれが、潜在意識の特性です。変わってはいけない、一度刷り込んだものを失ってはいけない、忘れてはいけない、と保持する力、それこそが潜在意識の本分だからです。
一方魂(超意識)はどうでしょうか。
超意識とはキリスト意識とも言われ、私たちの愛の領域です。多くの体験からしたたる愛の一滴を記録して、その経緯や所以はしぼりかすのように手放してしまいます。
その愛が苦しみのゆえに得たものか、楽しさのうちに芽生えたものかは問いません。高次元の純粋な愛ほど、そこに差異はありません。どんな場面にも普遍的で変わらないものが神の愛であり真理です。
私は多くの方の変容のお手伝いをしていてつくづく思います。
ただ、やめよう、と思ってこれまでやっていることをやめることなど不可能なことだ、と。
なぜなら、その習慣には存在理由があるからです。良し悪しにかかわらず。
多くの人が自分で自分を変えることに取り組んでみても、本当に重大なこと、切実に変えたいことほど変えられないのはそういうことです。
ではどうするのか。もちろん正解があります。
それは、今よりも本当に良いものを自分の中で採用することです。簡単すぎますか?
ヒプノセラピーを始めてしばらくして私の前に立ちはだかった壁はこのことでした。
多くの方がブロックとなっている信念を手放すことに成功し、もっと、これも、というふうに意識のおそうじを進めていくに従って、だんだんと変化が弱まっていくのを見ました。
潜在意識の思い込みは一人の人間にとって無限と言えるほどあります。むしろ思い込みでできているのが潜在意識みたいなものです。なのに、数回と解放を重ねるとだんだんと変化に行き詰まっていかれるのです。
それはちょうど、鎧は脱いだけど、これ以上脱いでしまうと、本当にまる裸になってしまう。そうなったら自分はどうやって周囲と調和して生きていけばいいのだろう。みんなは鎧や装飾品を身に着けているというのに。・・・そんな感じです。
私が皆さんのガイドを務めるにあったって、私はもう一歩踏み込んでその真実をつかみ、提示しなくてはなりませんでした。
それが昨今私がうるさく口にする言葉、内なる神です。
意識の仕組みがそうなっていることは自分なりに知っていました。そもそもそれに感動してスピリチュアルな取り組みを実践し始めたのです。ハイヤーセルフという概念も、ヒプノセラピーには必須です。でも知識を自分がもう一度自分の中で再発見し再体験しないことには、みなさんにそれありきで向き合うことはできません。
そんな模索をしていて出会ったのが、「奇跡のコース」やパラマハンサ・ヨガナンダの説く「一元論」です。
それまでの自分を思い起こすと全てではないにしても少なからず、自己変革とはもっと良い状況を引き寄せるための努力だった気がします。今も多くのスピリチュアルと称すものが基本的にそういうスタンスにあるのを感じます。状況や、健康や、能力の向上を多くの人は望んでいます。
しかし、本当の充足、本当のしあわせ、本当の愛とは?そしてその本質とはどこにあるのでしょう。その答えが神です。
自己変容に当たって、すべてを神という指針に従って進めなければ、それは必ずぶれます。
神をゴールに見据え、その道すがらのすべてを神に導いてもらわなければ、あっという間にエゴが縮こまって動けなくなるのです。それが壁の正体でした。
鎧の内側にすべての人に等しく同じ神があるのであれば、私たちはただそれに守られ従い、互いを理解し、愛すればいいということです。それこそが本当の調和です。
本質的な前進と生長は、神というゴールを心が思い出すことでしか起こらないのです。「準備ができている」というのはそのことを心が了解しているということなのだと私は思います。
その了解なしに行う自己変革は、勘違いによる思い上がりという副産物を生み、また限界を再認識することによる自己不信をもたらすでしょう。否定的な思い込みを打ち消してみても肯定感など生まれません。神の愛の光に自分を照らすことでしか平安はないのです。
手放せない習慣の本当の原因は、その習慣をどこかで正しいことだと信じていることです。さらに多くの方が神の法則よりも自分の思考のほうが確かだと信じています。今の習慣よりもより良い思考をと、多くの方がが望みます。でも習慣(潜在意識)に思考(顕在意識)は絶対に勝てません。
本当に良いものを採用するというのは、潜在意識に優る高次元、つまり魂(超意識)そして神(宇宙意識)を選ぶということです。
神がいるだろうことは知っている、信じている、と思っていても、徹底的に信頼して委ねることや積極的に神に従って自己変容を受け入れる人はまれではないでしょうか。
または神の導きに従うことを、神のお告げや命令に従うことと思い込んでいる人も多いかもしれません。でもそういう人の目的はやはり、より良い状況を得たいがためになっていることが、残念ながら多いように思います。
そうではなく、神の子らしくあることを選ぶこと、それについて真剣に思うこと、取り組むこと、それが神を喜ばせることであり、本当の喜びを受け取ることです。
神が外にいて、良いことにはごほうびを、悪いことには裁きをするという観念から自由になることが、神を理解する第一歩のようにも思います。
神はすべての存在の内側にあって、ただただひたすらに、完全で無限なものとひとつになることだけ望んでおられるように、私には見えます。