承前。
そう気づいていみると、私の幼少期の傷とか問題の核心とはなんだったのか見えてくる。
愛の代わりに怒りでいっぱいだった環境からただ、出ていきたかったのだ。
しかし、からだが出て行っても、からだに刻まれた記憶からただ離れることはできなかった。
それがからだというシステムだからだ。
私に必要だったのは、肉体に刻まれた記憶から離れ、本当の自分を取り戻すこと、ただそれだけだった。
内なる神に気づいて導かれて生きる今、すべてはここにつながる道だったのだから、過去の出来事は小さくなりつつある。
しかし私の心は荒々しい体験の記憶から離れるほどに繊細で、小さなことにほどますます揺れ動く。
恐れに浸っていた肉体意識の記憶は消えたと思えばまた浮上してくる。
皮膚から、筋肉から、骨から、脳に刻まれた反応という経路から。
ただ、今の私はそれが真実ではないことを知っている。
真実でないものを遠ざけ、真実を信頼するやり方をからだで覚えてここまできた。
自我は生きる限り私に目を向けるようせがむ。
けれど今の私はそれから逃げることも目を背けることも無意識になることも必要としていない。
なぜならそれと一体化してしまうことなど選ぶ由もないからだ。
それは、私を乗せて走る乗り物の特性であり、幻想の特性なのだ。
そして真実はそこにはない。
私は今、自我によるコントロールに、怒りによるコミュニケーションにNOと言う。
愛を退け、自我を選び巧妙に迫ってくる怒りの誘惑にNOと言おう。
そして、自我からの攻防に傷つく度に、神の愛に戻ろう。
何度でも、何度でも。
自分が愛そのものになったと思った次の瞬間に神を忘れる自分を慈しもう。
それくらいに私は、愛を必要としている。
本当の愛とひとつに溶けてしまうまで、何度でも神を求めよう。