スピリチュアルとカテゴライズされるものの中にいろいろなものがありますが、ほんものをどう見分ければいいか、最近簡単なことに気づきました。
結局、真理はとても単純です。すべては等しく良きものであるからすべてを良き事へ導くということです。真理は神が創ったままの良きところへ私たちを導く道です。ですからその真理からくるものはその理にかなっているし、そうでないものは、二元性の視点に囚われています。
たとえば自分のルーツやアイデンティティーをたどる意味とは、すべてを受け入れ供養し感謝と解放、つまり統合へと向かうみちすがらのものですが、今がこうなってしまったことへの言い訳や自己弁護のための理由としてしまうと、それは利己心を助長し分離の方向へ向かわせます。昨今自己肯定は良いこと必要なことと言われていますが、自己弁護、利己心と紙一重です。
真の自己を見出し肯定することが人を幸せにするのであって、肉体の、この世の価値基準に沿った自己を肯定しても意味がありません。それは弱肉強食の社会で一時的に少しタフになるくらいのことに過ぎません。
多くの人が、人の作った価値基準に自分を合わせることに必死なのです。周囲の意に沿わなければ、周囲の要求に応えなければ、認められなければ、理解されなければ。それに反発すると今度は、自分を通すことに必死になります。それが自己肯定が必要という価値観につながっています。
でもそれは同じ綱を引っ張りっこしているだけです。つまり二元性のどっちかにいつも傾いているのです。すると今度は、真ん中でいよう、という気持ちが表れて、なにも示すことができない自分になってしまいます。
完全主義の人は特にそうだと思いますが、いつもこうやって、この世の基準の中で完全な自分を求めます。だから本当に生きづらいのです。そうなると今度は完全主義を直そう、いい加減になろう、という発想に転じていきます。また引っ張りっこです。
それを自己探求だと称し、いつかこの世で自分の落ち着ける場所、誰かが認めてくれ、分かり合えて安心できる場所があるのではないかとさ迷っています。そのさ迷っている人を今度は地に足がついていない、とスピ用語で括っています。
では地に足がつくように、グラウンディングする、あちこちの神様を巡って歩く。スピリチュアルのワークを梯子する。でも満たされない。自分の無価値観がぬぐえない。
そんなことをしているより、善行、ボランティア活動でもしたほうがいいのではないかと参加してみると、そこでも結局人間関係についていけない。やっぱりここじゃないのかもしれない。自分にはまだみつかっていない才能や使命があって、それを発揮すれば安住の場所に出会えるのではないか。
こういう思考をしていると、エネルギーはどんどんこんがらがっていきます。チャクラを見るとぐにゃーとねじれた不思議なブロックがかかっていて、誰からもつっこめないような自己完結のかたちをとっていたりします。
解決法は単純です。それらはすべて、意識が外、つまり物質に向いているだけなのです。スピリチュアルだ、自己探求だと思っているからそんなはずはないという盲点になっていますが、内面には向いていないし、あるものを見ないで、ないものを見たがっている状態なのです。それが偽スピリチュアルです。
スピリットというのは、実在のことです。真実とは、事実なのです。でも私たちの肉体の目、肉体の感覚はいつも、過去に視点があり、今を過去の延長や集積と認識しています。今を見ていないのです。
だから、今に戻ってくることが必要です。今に戻るというのは、肉体の誤解を解いて真実に戻ることです。言い換えれば、神が創ったままのほんものの世界に戻ることです。そのためには、自分という存在に気づかなければなりません。自分こそがスピリットなのだという真実に。スピリチュアルのワークはそのためにだけ利用してください。
あたまとからだにそのことを認めさせてあげるのに時間がかかる人もいます。でもまずどうあれやらないと始まらないのが瞑想です。
しかし昨今またそこにも罠があります。この世の価値基準に合った仕様に自分を改造するための手段としての瞑想が大流行です。エゴを強靭にするために瞑想するという発想です。
まず、神を求めてください。あちこちの場所ではなく、自分の心という寺院の中に。その寺院に住まわれている神を礼拝するため、瞑想してください。そうすると人生に必要なものが差し出され、或いは光が当たってきます。在るものが見えてきます。自己探究、自己発見、自己啓発、自己表現、すべてはその「真の自己」からくるものです。
そうするとあらゆる場所に、神聖とされる場所でもそうでない場所でもすべてに、神をみつけることができるようになります。この世がその時初めて、神の創った姿として、あなたの霊的(スピリチュアル)な目で見えるようになります。