巷で人気のスピリチュアルでは、エネルギーありき、というものの見方をしている。
でもそれは、水と水蒸気を比較しているのと変わりない。水蒸気は見えないけれど、水と同じ、この世の物質に違いないのだ。
本質は、意識ありきだ。意識がエネルギーを創る。
エネルギーがこうだから私がこうなった、という考えは、相手のせいでこうなった、という見方と同じレベルだ。そうではなく、私がこうだから、エネルギーがそうなっている(見える)というのが正しい。(わかりやすく言えば。)
霊的ななにかが「見える」という人の話を聞くと、それはだいたい人間的ななにかを見ている。物理次元と同じような様相で。おそらくそれは、アストラル界と言われる次元の様相だ。
それは物質次元より細かい振動ではあるけれど、氷と水蒸気の違い、という感じ。見えないものを見るのが神聖とは限らない。何を信じているか、或いは信じないか。人は信じているものを見る。
結局それは肉体に付随している想念の次元だ。
霊がかり、神がかりの世界と言っていい。
神がかりというからレベルが高いかと思えばそうではなくて、この世界の神は、昔の人の霊体だったりする。
根源なる神というのは創造主のほうであって、被造物のほうではない。神は昔の人の高貴な霊にだけ宿るのではない。あまねくすべてに偏在する。実在している。
それは、私たちがこの世の物質的な思考に固定されていては決して理解できないものだ。
波動を上げる旅は、神の愛を実体験する道だ。優劣は関係ない。人間が歴史上の優った人物を神というお手本にしたい気持ちはわかるけど、その延長上に神がいるわけではない。完全に目覚めなければ、優秀であろうと正義であろうと、人の意識には正負の両面がある。
私がほんものだと思う人は、この世に愛を注ぐ人だ。ここにいて、今ここにあるすべてと連帯する人だ。なぜなら今ここにあるすべてとわたしとは同じものだから。それを知っている人だ。
ライトワーカーを自称しても、ここではないどこかを探している人は、自分でない何かになりたがっている人は、魂が見つからずにさ迷っているように見える。そういう惑わしは自我からの誘惑だ。よくあることだ。
魂と一体にならなければライトワークはできない。魂はどこかにあるものでも目指すものでもない。ここにあるのだ。それを悟ることだ。
自分がライトワーカーだと気づいていなくても、ここにいて自らの愛とエネルギーを注ぎ、そこを照らす光となっている人こそがライトワーカーだ。
パラマハンサ・ヨガナンダのように、決して「私を信じなさい」と言わず、「私は神だけを信ずる」と言い、「神だけを愛する」と言い、「何度でも、何度でも、ここに、皆のところに戻ってくる、それを分かち合うために」と言う人こそが、聖なる愛の次元に達した人だと思う。
そういう人に私はなりたい。