神さまが私たちを完全なるご自身に似せて創られたとして、またこの物理次元の世界が五分五分のバランスの世界だとして、私は私にそう見えているだろうか。そう扱っているだろうか。
この世が五分五分ということまではなんとか受け入れたとして、神の被造物が完全とはこれいかに。
私たちはその狭間を行ったり来たりして自分を裁いている。なぜそんなことをするのか。
それは、私たちが精神と肉体を合わせ持った生き物だからに違いない。
神は精神にのみ存在する、と言えばあまねく偏在する神を否定することになるだろうか。
しかし神が永遠無限だとするなら、少なくとも肉体という性質上、そこに永遠無限の神の特性は見当たらない。
闇は存在するのか。闇は一時的なものだ。光を閉ざしたその瞬間だけ、闇は存在するかのように見える。しかし永遠無限の光である神の中に闇は一瞬たりとも存在できない。
ゆえに闇はない。
世界に光と闇が五分五分の力で存在しているという認識そのものが、まやかしなのだ。
その光は光が投影した光であり、その闇は光が投影した闇だ。どちらも実在ではない。
言葉は難しい。けれどとても重要だ。私たちは言葉を通してこの世を具現化する。
光と闇。
そう言葉にするだけで、光の威力をあたかも脆いものかのように想起させる。
全き光という神を忘れさせる。
しかし私はその観念を否定する。
光の中に、闇は存在できない。
そして私たちは、光に属している。
そうか、そうだった、と、思い出すことで、真実の世界に戻ってくることができる。
真実に戻ると闇は霧消する。
闇は私たちが自分を肉体だと認識して疑わない時にだけ存在する。
有限で、神とは似つかない生物だと認知した時に。
生まれては死んでいくこの世界の生き物だと認定した時に。
悪夢から戻ろう。闇は消滅する。
私たちが完全なもののうちに属していると気づいている時、あらゆるものに神が遍在することを私たちは理解する。
私の内に神がない世界ではすなわち外側に神はない。どこにもいない。
内側に神をみつけない限り、神はどこにもいないのだ。
分離した神を信じている間、私たちは分離を信じている。
そこにいて、ここにいない神。
そこにあって、ここにない愛。
全き神に属するとき、五分五分の世界の陰影に優劣はなくなる。ただあるがままの姿を浮き上がらせている。そしてそれらが一部の間違いもなく調和しているとわかる。
完全な調和を続けるためにものごとは変化し続ける。全きひとつの中で、被造物はなにひとつとどまることはできない。
とどまれないものの中に不変を求めて私たちは絶望する。
肉体は不変にあこがれる。変化の中に不動を探す。そして迷う。
真実に戻ろう。
不変のものの中に不変のものをみつけよう。
神が在るところに真実がある。
私たちはそこに存在している。