なにかの出来事に反応して怒る、ということを私はやめた。
やめたというのは、もしそれが体内に起こったとしても、それを奨励したり肯定したり信じたりしないということだ。
それは単なる反応であり、単なる習慣であり、そして私は別の創造の道を選ぶ。
神の創造に任せる。
その反応であり習慣であるものの役割は、広い意味で身を守る、つまり正当化するためのものだ。
怒るという反応が体内に出てきたときは、私の中に残っている古い概念を点検しお掃除する機会を与えられたと理解し受け入れる。
時には一瞬、時には時間がかかる。しかしそれが機能しないことはない。
こどもの頃からよく、理不尽さというものに涙を飲んだ。
それは幼いきょうだいげんかに始まって、親の八つ当たりや学校のルール、先生という大人の都合、心ない言葉、暴力と逃げ。
正しいと思う考えはいつも退けられた。
私は正しさに優る正しさを、強さに優る強さをこの世でみつけなければならなかった。
正当性妥当性有用性あらゆる価値判断に優る価値。
それこそが神であり愛だ。
私という限界はすぐにやって来る。
自分のやり方、つまりエゴのルールに基づいて自己を守るやり方には限界があり、それは常に、強いものが勝つ。
弱いエゴよりも強いエゴが勝つ。
より強固な剣で迷いなく裁くものが勝つ。
声の大きな者の声は聞き届けられ、ささやきはかき消される。
その声に惑わされているうちは、内なる小さな声が聞こえない。
耳を傾けるべきその声が。
怒りも正当性も悪すらも大差ない。
内なるささやきのその真実の光の前では。
神の愛にすがりそのやり方に従うと、限界を超えて道が開かれる。
強さや優劣や正当性というものを超えた真実が開かれる。
怒りは体内の記憶の中にある。生き物の歴史の中に。意識の集合体の中に。
けれど私はそれに代わる守護を選ぶ。
怒りの鎧を手放すことを。
その鎧の役割が免責されることを。
優ろうとする強固な壁が取り除かれることを。
私ではなく、そのすべてが創り主によって為されることを。
私がその道を歩めることを。
その道に裁きはなく、赦しだけがある。
そこには自由があり無限が在る。
全き愛を選ぶことで、私たちは身体に刷り込まれた正当性のルールから離れられる。
順番はそうでなくてはならない。
あらゆるセラピーが、癒しが、或いは探究が、そうでなくてはならない。
なぜなら私たちは弱い生き物だから。
守られて初めて自由になれる。
自我に守らせるのか、真我に守らせるのか。
真我を知らない限り、自我を離れられない。
真我を求めない限り、自我の中で自我を乗り換えている。
しかしその乗り換えすらも幻想に過ぎない。
自我は羊の群れのようだ。
無理やり追いかけても散らばるだけ。しかし愛を込めれば着いてくる。
神を求める羊飼いはいつも愛をこめて羊と向き合う。
しかし羊飼いは羊の従者ではない。
神の従者である。