沖縄のすばらしさに、「人が個として尊重される社会」をあげたいと思います。
もっともすべてがそうだというわけでも、沖縄が意識的にそれを目指しそうしているかどうかもわかりません。おそらくはもっとシステム化された便利な社会へ向かっていることでしょうし、本土並みを追うのであれば、目指すのは違う形なのかもしれません。
ただ私が東京の片隅で生まれ育ち、ひとしきり社会人を経験してからここで暮らして感じた雑感です。
安富歩さんの言葉を借りれば日本は「日本立場(たちば)人民共和国」だそうです。これはまったくもってそうだと私も思います。
ずっと以前にこのブログにも書いたことがありますが、子供の頃に「相手の立場になって考えなさい」と教えられたことがあります。それが思いやりである、と。
私は幼いながらにそうしようと努めましたが、相手の立場に自分の身をおいて考えるということをいくらやっても「どうしてあの人はこうするんだろう」「どうしてできないんだろう」「自分だったらこうするのに」という自我の声が強まり、対話の溝を深めるだけなのです。
本当は「相手の身になって感じてみること」でしか理解が深まることはありません。たとえそれが困難だったとしても、それを試みることに意味があります。そうして初めて自分という枠組みがどれほど小さくて不自由なものかを、そして他者への理解に努める際に出くわす壁の正体を、垣間見ることができます。
人はその壁に挑むことでしか成長することはできません。それには立場ではなくて、個であることから始めなくてはなりません。
瞑想の条件に「個であること」があります。
言い換えれば、魂としての自分に戻ることが瞑想です。
前回記事で、魂とは内なる神の質を帯びた個々の生命の本質=愛だと表現しました。
魂には立場がありません。
立場どころか、アイデンティティーもありません。
性別も、血縁も血筋も、地位も権力も階級も学歴も、育った環境も現在の状況も関係ありません。
そしてそれらを取り外してそこに残る心、それが魂です。
瞑想はそこに戻ることです。
人は社会が作った立場を自分と混同し、自己形成の際に身に着けた様々な概念(潜在意識)を自分と混同して生きています。
内なる神が私たちに求めるものは、個、つまり究極的には魂に戻ることです。神のおうちに還るとはそのことです。死んで肉体を離れれば戻れるというものではありません。
少なくとも、愛によるコミュニケーションをするためには、立場ではなく個と個という意識で向き合わなくてはなりません。
瞑想はそれを可能にするほぼ唯一の方法です。
瞑想は、何者かになるために行うものでは決してありません。一般的に本やネットで多くの方が求めているのは、何者かになるための情報のようです。でも何者かになるための瞑想には意味がありません。
神の本質は、無条件の愛です。それは自我をなんでも受け入れるという意味にとられがちですが、まったく違います。当たり前に聞こえますが、ここで止まっている方はたくさんおられます。
すべての人に備わる魂を信頼することです。すると初めて対話が可能になります。対話とは対立する者同士が理解を求めて議論することや批判することも含みます。思考の罠にはまるとここが混乱して対話や議論ができません。対話を攻撃や否定に感じてしまうのです。
自己意識を癒すとこの混乱が解け、魂への信頼が回復されます。すると、対話というコミュニケーションが回復します。
心を開いたコミュニケーションの難しさを、インターネットのやり取りなどを見ていると切に感じます。
それが今の集合的メンタリティーなのだろうと受け取っています。
だからこそ、急いで伝えたいことがあります。
どうぞ諦めずにご自身とのコミュニケーションを進化させてください。
そしてよろしければお手伝いさせてください。