寛容について少し前に書いた。
瞑想会で少し話題にしていただいた。
寛容であることは自分のテーマだか、他者に寛容になれないのは自分を許していなかったからだと気づいた、という言葉をいただいた。
瞑想は意識を内なる神のほうに引き寄せる。
すると、わからなかったことが突然わかる、というようなことが起こる。
自分をもっと許したいと思っていらっしゃる人は多いと思う。
自分をもっと良きものにしたいと願い、他者や社会にそれを求め、それがゆえの自分への厳しさや他者を裁いている自分に苦しみ、そしてその矛盾を溶かす光を求めている人がきっといるだろう。
その光はある。
つまり完全な答えはある。
寛容とはなんだろう。
すべての自我は少々の真実と多くの過ちでできていることを認めることだ。
その自我の集合体が社会だ。
たぶん人間は過ちから多くを学ぶよう創られている。
自我と自我はそれぞれ別々の過ちを抱えており、ぶつかり合うことが正しい。
ぶつかり合ってみて、相手を変えたいと思い、次に変わるべきは自分だと知る。
しかし、自分の自我を裁いて変えたとしても、結局自由にはなれない。
なぜなら自分が他者を裁きたがっていることに変わりはないからだ。
では、私たちが向かうべきはどこにあるのだろう?
自我はどっちもどっちだけど、すべての人には完全で一つである真我がある。
真我のほうに向かえばいい。
真我を認めると、自我はそれぞれ違ったままでいいと、その時初めて心から思えるだろう。
自我による自我の裁きが終わりを告げ、寛容がそこに残る。