瞑想は私たちを平安へ連れていきます。それは、波と波の合間の休憩場所のことではありません。永遠にそこにいて良い場所です。
なぜ永遠にいることができるかと言えば、そこが真実の場だからです。
真実に気づいている時、私たちはそれ以上どこへも向かう必要がありません。
一方生き物である私たちは常になにかを得ていなくては生命を維持できません。
ですから永遠の真実と一つになったかと思うと、そこからまた肉体レベルに戻り、生命維持活動を始めます。良し悪しも優先順位も、生命維持活動中心の基準になります。
そうしていると真実などけろりと忘れて、生命維持活動こそが人生において重要であり「現実」だと信じ始めます。その中で平安を求めたとしても、真実を忘れているのだからうまくいくはずがありません。
肉体の中で真実と現実はこのようにして二極に認識されます。
スピリチュアルと現実、という二つの世界の間で苦悩されている方を多くお見受けします。その時その人は、自分を肉体、自我だと認識しているはずです。
実際はこうです。私たちは魂、真我、超意識そのものです。
真実は永遠不変ののもであり、永遠が二分されることは永遠にありません。
それが現実です。
私の夫は出会ったころ「自分は善なのか悪なのか」という疑問に悩んでいました。
多くの人がきっと多かれ少なかれ、自己を認識しようとするとこういう壁に当たるのではないかと思います。だから多くの人は「それを見たくない」のです。それよりも「はっきりと得られるもの」を見ていたいのではないでしょうか。
その時人は、真我と自我を比べて、自分はどっちなのだろう、善きものだとするならなぜその通りに生きられないのだろう、と悩んでいるのです。でも本人はもちろんそうは思っていません。自我の中の善と悪を比べて悩んでいるのです。永遠に答えはでません。
人の内には全き光があります。それは自己意識の中の善悪を超えています。ですから超意識と呼ばれています。
超意識は個々の価値観を超えた大いなる善であり、自我から見たらそれは良いのか悪いのかさえ判断できません。
自分の個人的な体験に基づく価値判断を手放して、もっと大きな、全的な、全き善に判断を任せ結果を委ねること、それが委ねることの意味です。
世間の荒波や他者の言い分などにただ流されることとは明らかに別です。
そしてその大いなる導きに任せ、与えられたものを受け取り、与えられていることに気づきながら力を尽くして生きることがおそらく、なによりもポジティブな生き方です。
全託するとはそのことであり、そこに平安がゆるぎなく在るでしょう。
あなたはなにを望みますか?