愛について私たちはほとんど誤解していますが、だからと言ってまったく知らないわけではないんです。当然ながら。
多くの人が愛を口にし愛を語り、なにかしらを愛と認識しています。
でもだからこそ、知っているものを愛だと信じてしまう。
或いは逆に、愛はよくわからない、世の中に言う愛を信じられないから、という人もいます。わからないものだから触りたくない、というスタンス。
そしてその両者ともが、愛をもっと知ろうとしないんです。
ですよね。
でも愛は、求めないとわかりません。
愛は人生の必須項目の何番目かに出てくるトピックではありません。
愛はすべてです。
神と愛と真理は一つ、ということをここで強調しておきたいと思います。
どれであれ求めないと体験できません。
せっかくなので奇跡講座をからめます。
レッスン127 神の愛の他に愛はない。
これは意味がわかるほど衝撃的な言葉です。
「おそらく、あなたは愛にはさまざまな種類がありえると思っている」
これはよく言われる
「幸せはひとそれぞれ」と似ています。
世のスピリチュアルの多くはそういう考えを主張していると思います。
そう言いながら、自分だけは安全な高みに登りたい、という欲求が透けて見えます。
「しかし愛は一なるものである」
「愛には分離した個々の部分はなく、程度の違いなどもない。種類も次元もなく、相違も区別もない。そのどの部分もみな同じであり、終始一貫して変わることがない。人や状況によって変化することもない。
これは神の中心(こころ)であり神の子の中心(こころ)である」
そうなんですね。
私たちは愛とそれ以外で構成されていて、そもそもこの世を生きることは、それ以外を優先としているということです。
私たちの肉体と肉体が作っているこの世界には愛は存在しえないということですよね。
また人間には欲があるけど自然界にはないから愛せるとか、神は自然(外)にいるとか、そういう考えも、自我ならではの思考だと思います。
でも大事なのは、私たちの内、つまり心には確実にあるということなんです。
心とは愛だということなんです。
じゃあイライラや不安は?
それは肉体の記憶と反応なんです。つまりそれはからだに属しているものなんです。
求め、注意深く識別し、そこから離れず、優先順位を一番に置いて生きれば、それを体現することもできます。
そしてそれを他者に、世界に観ること、共有することもできます。
神はそうすれば私の元に戻れると言っています。
それを選ばない限り私たちは、都合のいい時だけ愛を持ち出し、思い通りにならない時だけ愛の欠如を嘆き、それを攻撃の種にし、自己を正当化して生きる生き方を持ち回りでやっています。
椅子取りゲームに参加し、椅子にあぶれない間は、椅子からあぶれた人に親身にはなりたくありません。
これは仕組みの話です。
誰もがこの仕組みを見ないように生きているのではないでしょうか。
そしてこんな仕組みに絶望し、変わることを選ぼうとした人こそが真の仕組みを切望するのではないでしょうか。
求めるというのはそういうことです。
愛が欲しい欲しいと欲しがる意味ではもちろんありません。
でも、私はすでに愛なんです、と言える人がいるでしょうか。
(時々出会いますが)
愛は自分は永遠だと胸をはって言えるでしょうか。
もしそうなら、世界は愛であるはずです。
奪いあうことで、支配することで、勝つことで幸せになることはあり得ないはずです。
隠すことで、無感覚になることで、心を閉じることで、平和になることはあり得ないはずです。
いろんな人がそんな幸せを、そんな平和を語り、多くが賛同し、求めているのがなんとなくわかります。
いろんなところで愛と自我の取違いが起こっているのです。
仕組みに戻るというのは愛に戻ることです。
それは気分とか感触ではなく、実在する明確なものです。
だから確信を持つことができ、平和でいることができるのです。
どんなに揺さぶられても、真実のほうの力が圧倒的に強く、
私がどんなに弱くても、それに戻ろうとする強さが勝つのです。
お手伝いさせてください。
究極の意識の仕組みを学ぶ奇跡の講座は、あとお一人さまお席がございます。
その他のすべてのセッションも、この真理の働きの力を通して行っています。