私たちは生まれる前から五感の記憶を記録し始めます。
ですからお母さんのお腹の中の記憶も、普段は思い出さなくても覚えています。
自分にとって印象的だった部分を。
ではなぜそこが印象的なのでしょう。
その選択の基準は、すでに存在しています。
複数のお子さんを育てているお母さまに伺うとみなさん強く頷かれるのですが、同じDNAを引き継ぎ同じ環境で育った子供たちがどうしてこうも反応が違うのか。
強く反応する部分とそうでない部分が、きょうだいで全く違う。
つまり、同じものを与えても、受け取るところが違う。
この違いはどこから来るのでしょうか。
答えは過去世にあると私は理解しています。
赤ちゃんは無垢でまっさらだと言われますが、もしそうなら赤ちゃんはみな同じ、ということになります。
そしてだとすれば何が違いを作っていくのでしょう。
この肉体の置かれた環境、育て方だけということになりませんか。
でもそうでないのは明らかです。
みんな反応の基準は少しずつ、或いは大幅に違います。
ですから、インナーチャイルドにはそれぞれの言い分があるのです。
その言い分を持って大人になった私たちは、中身を開けてみれば驚くほど違う見解を持っています。
同じ事象、同じ人に対して、例えば自分のお母さんがどんな人かという見解が、きょうだいで全く別人のことを言うように違っています。
世界はこのような違う見解の総和でできています。
摩擦と誤解の集積です。
インナーチャイルドがそうなるのは、過去世から持ってくる記憶の組成が皆違うからです。
数千回と言われる人生体験と、そこから得た人生観、つまり判断の元になる価値基準に違いがあるからです。
奇跡講座では、「私たち(自我)は見たいものを見る」という言葉で表現されます。
そのことをそっくり受け入れるのには私たちには抵抗があることでしょう。
嫌な目に遭ったり、嫌な態度をされたりという体験をしていない人はいないでしょうから、自分で選んだ覚えはない、と。
私たちは快不快にかかわらず、自分の注意が行くものを見て、それに対する反応を記憶していくというのがその意味なのです。
そして注意が必要なものにまた出会っていくのです。
ちなみに奇跡講座では注意の必要なもののことを、防衛や攻撃の対象、というふうに表現します。
自我が注目するのは、自分で対処するために覚えておこうとするからです。
奇跡講座では、それを神聖な力によって、赦しなさいと言います。
赦しとは、取り消しです。
自我のやり方と神のやり方、自我の見方と神の見方はこのように真逆です。
真実というのは、時代や環境や条件に関わりなく、永遠に真実であるものを指します。
それを真理では「実在するもの」と言います。
私たちが知りうるものでは、「愛」がそれです。
時代や環境や条件、価値観の変化や違いによって変わりゆくものを、幻想と呼びます。
幻想とは「実在しないもの」です。
私たちを脅かし悩ませるものは例外なく「実在しないもの」のほうです。
なのに私たちはいつも実在しないものを選び、実在しないものに注目し、それが存続されるべく信じています。
もしこの世に正義と罪の両方が実在していたなら、正義は罪を許さないことで勝利するでしょう。
この世界はこの理論に覆われています。
そしてその見方を信じれば信じるほど、そのようなケースに出会い、目の当たりにすることになります。
信念が体験を呼び、体験が信念を強め、ますますそのループを繰り返すのです。
幾世もの旅の間に正義の立場を演じ、罪の立場を演じ、両方を繰り返せばいつかはそのからくりに疑問を抱き、そして気づきがあるかもしれません。
でも途方もない時間がかかります。
また疑問を抱き気づいたとしても、そのループからの抜け出し方がみつからないという葛藤を繰り返すかもしれません。
見つからないうちにまた慣れ親しんだループに飲まれてしまうこともあるでしょう。
神の見方をするなら、そのどちらの立場も幻想、ということになるでしょう。
神はその中身がなんであれ、それらの幻想は実在しないがゆえに、私たちに罪はない、と言います。
無罪の私たちがきょうだいたちのあいだで断罪のゲームをすることのすべてが幻想だと。
罪は幻想にすぎないのだから、実在の世界に戻っておいでと。
愛に戻った時、赤ちゃんの時にすでに持っていた過去世から持ち越した価値観、独自の体験からくる他者との差異、また特別性というギフトとして持ってきた過去世での成果までも、私たちの真実の価値の前にその実在性を失うのです。
過去世は、私たちが神に戻るまでは、私たちに影響を与えます。
過去の記憶の繰り返しという牢獄に幽閉されているのです。
投影とはこのことです。
神の愛の中でのみ、それらは解き放たれます。
過去世ワークでは、解き放つという体験をしていただきます。
そしてそれがイコール愛への帰還の道だということを、超越的に理解していただけると思います。
セッションについては
をご覧ください。
感謝とともに
AZU拝