自分の人生はことごとく、成し遂げない人生だと思う。
やり続けることもやめないことも不得意だ。
クライアントさんから、そのような相談を受けることも多かった。
仕事が続かない、同じ場所に通い続けられない、など。
HSP、エンパス、アダルトチャイルドなど、要は敏感で共感体質、傷つきやすいことが直接的、間接的な妨げの元になっていることが殆どだと思う。
自分も例にもれず、同じ場所に3日通い、同じ人と顔を合わせ、そこが自分に合わない場所となれば、途端に生気を失ってしまう。
そして多分、この世の殆どの場所が自分には合わない。
人の波長に共振する力が強く、周囲に無意識に合わせ応えることが自然なので、修正とメンテに手間暇がかかり、怠れば故障してしまう。
生産性が低くコスパが悪い上に持続可能と言えない。
細かいことがやたら気になる上、正義感や責任感が強い。
けれど、処理能力に乏しい。スタミナもない。
ショックに弱い。愛が欠如すると亡霊のようになる。
とても生きにくい。生きづらい。生き抜く力が大幅に足りていない気がする。
そんな私がこの世での救いとして導かれたのが、真理だ。
真理においては、肉体という自分は真の自分ではない。
そのことが分かる以前は、この肉体という乗り物をなんとかすることが人生だった。
乗り物をなんとかしようとし始めるときりがない。
私に限らず、この肉体という乗り物は不完全過ぎて、欠乏を上げればきりがない。
それをなんとかしようとすることは、終わりのない欠乏の穴埋めをして、最終的には欠乏に敗北して命を終えるのを待つことである。
どうして私以外の人がそのことに気づかずに、希望を抱きながら生きていけるのかが不思議だった。
そして、そのように感じていたことはあながち見当違いではなかったということも、真理を学んでみてわかった。
乗り物のほうを自分自身だと認識すればそこには敗北と絶望しかないし、神、愛、真理が本当の自分だということを知れば、そこには希望しかない。
ただ、この世界は希望と絶望に二分されていて、前者は有利な肉体を持つ人の持ち物であり、後者は不利な肉体の持ち物となっている。
その両者はどちらも幻想に過ぎない。
実際には真理に相反するものは存在しない。
対極が無いものが無限であり、無限なものを真理と呼ぶからだ。
私たちは肉体という乗り物に乗って幻想を旅している。
ただし、神という実在を乗せて。
この幻想世界では絶対に真理に目覚めてはいけないというルールの上でゲームが進む。
この幻想世界では、善と悪が対極をなし、正と邪がどちらも実在するようにふるまう。
真理に目覚めると、その陰影そのものに光が差し、影を消し去ってしまうからだ。
そうなれば幻想そのものが消えてしまう。ゲームが終わってしまう。
続けるとはなんだろう。
成し遂げるとは。
幻想が消えれば続けるという幻想も消える。
続けるというのは時間という幻想の帯に移る陰に過ぎない。
成し遂げることも更なり。
そこに良し悪しをつけているのは自分の知覚に過ぎない。
これを実際の自分の生活に適用することは可能だろうか。
もちろん可能だ。
私たちには「今」しか与えられていない。
その今を理解することができるのは心だけだ。
形や肉体や自我にそれを理解することはできない。
私たちには心が与えられている。
ここまで整理すると、二つはっきりすることがある。
続けるというのは選ぶことの連続でしかないということと、成し遂げるということは不可能だということ。
私たちは、今選ぶということしかできない。
選ぶということは意思するということでしかない。
結果を選ぶことはできない。
意思したことから引き起こされたかに見える幻想があるだけである。
私たちには無限の選択肢があるかに教えられているが、その選択肢とは過去からの反射に過ぎない。
選択とは、過去からの反射に身を任せるのか、それ以上のものに身を任せるかのどちらかしかない。
これが私たちというシステムだ。
この世が生きにくい理由は、この世の仕組み自体がでたらめだからだ。
その上に価値がでっち上げられ、そこから外れることは罪とされている。
そのでたらめなルールを採用しているのは私たちでしかない。
では、選ぼうではないか。
選びなおそうではないか。
そのためには、
1,でたらめなルールを放棄する。
2,それよりも正しいものを意思する。
それよりも正しいもの、というのが真理だ。
真理とは私たちの本質そのものであるため、それを選ぶことで思い出される。
でたらめなルールでありながらそれが採用され続けてきたにはそれなりの訳がある。
それがあたかも正しく、実在するかに知覚されてきたことが理由だ。
私たちは無意識にそれを選んできた。
だから1,それを放棄するためには、意識的になる必要がある。
そして無意識のままそれを採用するのを拒み、
2,そのたびに本質のほうを選びなおす必要がある。
変化するというのはこのことであり、このこと以外の選択は、選択ですらない。
変化に見えるものは堂々巡りに過ぎない。
ここまで進むと、冒頭の議題自体に意味がなくなってくる。
続かないし成し遂げられない自分は、存在すらしていないことになってくる。
代わりにみつかったのが、神によって創造された真の自分である。
人生の途上のあらゆる問題とは、この出口をみつけるための機会に過ぎないと、今ならわかる。
この出口とは自我が作った世界からの出口である。
真の自分はあまりに神と同質過ぎて、この世の認識からはかけ離れて見える。
それほどにこの世は狂っている、という見方が恐らく正しい。
真の自己を認識し、受け入れ、完全に思い出すまで、幻想の旅は続く。
この世で言われている人生の旅とはまるで違う。
この世で推奨される旅とは、目的とゴールをみつけないための旅となっている。
それほどまでにこの世は狂っている。
世界がこのままでいいはずがないように、私たちがこのままでいいはずがない。
しかしその目的は成し遂げられるべきものではなく、ただ気づかれ、訂正され、受け入れられ、思い出されるべきものだ。
最後の一人までがそのような目覚めをするまで、私たちが目覚めたとは言えない。
誰かが眠っていれば誰かも次の瞬間に誰かの夢の中に吸い込まれてしまう。
そしてまた本質と繋がっている誰かが、眠り込んだ誰かの手をつかむ。
そうやって、私たちは永遠の一つの心の中にいる。
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