内なる神のお話をしていると、ああ内在神のことですねと言われることがある。
言葉で言えば確かにその通り。
実際にはどうだろう。
私たちの世界では分類し区別することが理解することだとされている。
心身の不調を感じた時、病名をつければ治る方法に辿り着けて安心と感じるし、なにかについてを話す時、共通する名称をやり取りできれば認識が共有できた気になる。
神を理解するために一時的に何かと区別する必要が、私たちの世界には確かにあるかもしれない。
内なる神にしても内在神にしても、私たちが神を区別し、安全な場所、つまり自分には影響の及ばない、自分が変化せずに済む場所に置こうとしている間は、神をわずかでも理解することはできない。
神は一つしかないし、それは私たちを超えたところにあるものだから、神を知ってしまえば私たちは神に含まれてしまうし、私という認識が失われてしまう恐れがある。
奇跡のコースは、そういったことを具体的に実用的に実践的に、もののみごとに言葉で示している。
当然ながら一読で簡単に理解することはできない。
理解するために、私たちは既知の常識や自分なりの理解を手放さなければならない。
神は特別なものではなく普遍的で、その法則はすべてに適用するものだからだ。
自分の特別性、他との違い(能力や個性なども含め)というものを取っておきたい間は理解は歪んでしまう。
しかしながら私たちは、違いによって自他を認識するよう生まれついている。
その認識を変える決意だけが、神に戻る唯一の道となっている。
神を自分の外に追いやったことが楽園追放なのかもしれない、と思う。
追放されたと思っているが、神を追放したのはたぶん私たちのほうだ。
自分の中に神があると認めたところで、自我はまだまだいくらでも神に捕まらない道を残している。
例えば神は個々に分離した肉体の中に個々に内在している、という見方だ。
肉体を神殿とし、依然として神を分離したものと見ている。
そして分離した目的のために神を使う。
この世界は恐れに満ちている。
正しさも愛も、人間が肌感覚で決めていて、そこに妥当な理由をつけることで常に勝つことを目的としている。
正負の均衡が保たれ、永遠の椅子取りゲームの中で生きる。
これがこの世の法則と呼ばれているものだ。
上半分のほうにいるために力を駆使し神を利用するのがこの世だ。
しかし神の使者は言う。
その世界はあなたたちが望んだ幻想にすぎず、なんの威力も効力も持たないので、もしあなたたちが終えることを選ぶのなら、幻想は取り消され、そこに縛られその報いを受けていると信じているあなた方の夢から連れ出してあげることもできるよ、と。
私たちには自由意志があると私たちは教えられた。
しかしこの世に自由意志はなかった。
真の公平さも客観性も、この世界には存在していない。
(我こそはと思う人はとことん追求してみるべきだ。)
ここにいる人がただ充足し満たされることがこんなにも困難なこの世は狂っている。
それを外側のなにかのせいにして戦いを選ぶのがこの世の、私たちの作り出した幻想の存続方法なのだ。
この世にある唯一の自由意志は、この幻想を終わらせることを選ぶという意志だけだった。
平安を望む人は神の近くにいる。
一緒を望む人、和解を望む人も。
その望みには赦しが手渡される。
幻想を終わらせることを選ぶなら、それはとても簡単になされる。
手ごわいのは、自分にはまだ発揮されていない神の創造の力があるという誘惑の声だ。
潜在意識の中からパワーを引き出したいと願う自我の声。
過去から自分が持ってきたものを積み上げたいという達成への意欲。
自分ではそれと知らずに、自我に捧げられた祈りに応える心。
幻想を終わらせる意欲が何度でも悪夢から目覚めさせる。
聖霊がともにあり、あらゆる罠を退ける。
神聖さだけが心底人を安堵させる。
自己に神聖さを見ることだけが、自分を愛することだ。
神聖さとは、神が創ったままの自分のことだ。
自分にそれを見る人だけが、他者にそれを見、世界を違った目でみることができる。
その時、世界は違っている。
神の創造はこの世にはないが、神の子が集う姿は見ることができる。
そのつながりだけが実在している。
そのつながりが放つ光が世を照らしている。
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