連日壮大な雲が映りゆく季節を見せてくれます。
昨日はやまびこ公園から降りる道すがら、八ヶ岳の麓の茅野市、原村あたりだけがスポットライトを浴びたように輝いていました。
原村ではすれ違うドライバーがみなさん笑顔で驚いたことがあります。
それだけで、内なる聖性をはっと思い出し、幻想から呼び戻してくれます。
私は長年テレビを持っていなくて、おそらくもう、持っていない期間の方が長いのではと思います。
自分の生き方は、思えば少数派の道ばかりを歩いたようにも思いますが、内面はごくごく普通といいますか、自分を変わっているとは感じていません。
特別でありたいとはまったく思っておらず、みんなとともにありたいという思いは強いのです。
ただ時々、多数派の選ぶ何かにとても違和感を感じることがあり、そういう時には自分がとても狭いところに追いやられたように感じることもあります。
こうなればみんなにとっていいに違いないと思うことが全然支持されず、真逆のことが人気、というような場面ですね。
そんなとき、自分の感覚のずれ具合みたいなものが嫌になったります。
そんなものに意味も価値もないんだということを、重々学んできたにもかかわらず。
そのどうでもいいずれの一因に、テレビ見てない、ということもあるのかもしれないと最近あるきっかけで思いました。
私は父親の仕事がいわゆるテレビ関係でした。
顔は出ないのですがテレビから流れる父の声を四六時中聞いて育ちました。
幼いころはテレビっこでしたし、物心ついたころには、自分もそこに出るということを意識して育ちました。
ところが20代後半に読んだ本がきっかけで、その、あまりにも当然のように自分の生活や意識の中心的位置にテレビがあるということに疑問を持つようになりました。
そして何年か、完全にテレビ断ちをしました。
その頃はインターネットというものも普及しておらず、SNSももちろんないので本当にそういう情報網から離れていました。
最初は明らかに寂しい感覚や物足りなさを感じましたが、代わりに時間の使い方についてまるごと見直すようになりました。
結果、時間もエネルギーも格段に増えました。
なにより、受け身ではなく、自分から働きかけるというエネルギーを取り戻しました。
テレビは持っているけどそんなに見ないほう、とか、番組を選んで見ている(から、自分は悪影響を受けていない。だからテレビをなくしてもそれほどの変化はないだろう)という方も多いかと思います。
私も当時そう思いました。
でもその本には私のそういう考えを見通したように、それでも、テレビを捨てなさいとありました。
数年間、完全にテレビを絶ったあと初めて見るCMは、それはそれは異様な感じがしました。
その感じを今でも覚えています。
テレビがいかに意識に入り込み、それが世の中の本流だと見せかけるのかを体感しました。
その時見たのはシャンプ―のCMでした。
サラサラで、艶やかで、金髪のモデルが映し出されていました。
世の中の本流が目指す先はそれだよ、と、画像は語りかけていました。
その画像から強烈な香料が鼻を衝く感じさえ伝わりました。
それから少しの間、家にテレビがあったりなかったりも体験しました。
最初は不思議の国を眺めるように映像を流し見していましたが、あっという間にそれにも慣れました。
あの強烈な違和感さえすぐに薄れました。
ああ洗脳されているな、と感じたのを機に、またテレビを辞めました。
私は今でも映画をわりとハイペースで見ているのですが、子供の頃にテレビで見たドラマや映画で心に残り大切にしているものがいくつもあります。
でも、それでも、テレビを絶つことはお勧めできます。
そういう時代はもう既に終わっているのだろうと思っていましたが、今回の新型コロナ及びワクチンの受け止めやら、選挙の結果やらを見ていてまだまだパワーを持っているんだなと思いました。
テレビで間違ったこと言うわけない、と、私世代は子供時代に親らか言われて育っています。
もし間違いがあったならお詫びと訂正があるものだと。
そうやって、世の中の本流の考えや価値観というものは共有されているのだ、と。
そんな神話が何度覆されても、それでもそこにはまだ一本の筋道が存在していると、どこかで無意識に信じているのです。
私たちは自分の内側の、信頼に値しない知覚を頼りに判断しています。
いくらなんでも、自分は、社会は、それほど逸脱した間違いは犯さないだろう、と過信しています。
その根拠はなんなのでしょう。
私はすべての人の内なる聖性を信じていますが、それは、自我の知覚とは全く別の次元のものです。
この世界ではことごとく人は間違っています。
この世の善悪の善は、聖性とは似ても似つかぬものです。
沖縄で見聞きしたのは、この世の地獄を直接体験された人の心です。
味方のはずの人が、一番酷いことをする。
そういう裏切りと狂気、その結末を体験された方々のことです。
戦争は、そういう欺きと狂気の宴です。
戦争で良いことをした人と、悪いことをした人がいる。
敵をたくさん殺した人は英雄で敵の家族を殺した人は犯罪人。
でも敵とその家族は見分けられないのです。
テレビにも良い番組はある。
戦争にも良い戦争がある。
殺人にも正しい殺人がある。
欺きにも必要な欺きがあり、裏切りも狂気もしかり。
でもその目的はなに?
濁った電波や善を装った同調圧力を放棄し、心を見ようとしたとき、その答えはそこにあります。
今日は期せずしてこんなお話になりました。
お付き合いくださったみなさん、ありがとうございます。
私たちの心はなかなか自由になりませんが、それは何が束縛しているのかがわかっていないからなのかもしれません。
肉体をいくら自由にしようと努力しても心は解放されません。
なのにこの世にあるほとんどの方法は、肉体をなんとかすればその向こうに自由があるかのようにうったえます。
まるで狂気です。
感謝とともに
AZU拝