みなさん、こんにちは。
2024年も12月となりました。
今年はようやく、コロナも本格的に明けたんだなあ、という感じで信州のここ周辺の活気のようなものを実感できました。
きっと多くのみなさんの意識も新しい領域に広がりを見せているのではないでしょうか。
世界が良くなっているのか悪くなっているのか。
私は以前のように気にしなくなっています。(良くなっていると以前に書いていますが)
良し悪しとは部分的な一側面に過ぎず物事には必ず表裏がセットになっている。これがこの世です。
ここまでは周知のことかもしれません。
でも意識が創造するということを理解するみなさんは恐らく、自分の意識の反映で良くなったり悪くなったりするのだ、というふうに受け取り、そしてそこに僅かにでも不自由さや葛藤、罪悪感のようなものを感じるのではないでしょうか。
奇跡講座、コースに導かれた皆さんは、熟読して訂正を受け入れるなら全ての葛藤全ての疑問、全ての足かせから解放されるに違いありません。
本当にどこまで行っても「全部書いてある」のです。ですからいずれその真実に出会っていくことは間違いありません。
最近気になるのは「ゆっくり進めばいい」という考え方です。
そう言っているコースの教師もいます。
でも、奇跡講座には「ゆっくりでいいよ」とは一言も書かれていません。
唯一の時間の使い道は赦しに使うことだという以外はありません。
私の感想を言うなら、地獄にいて苦しんでいる人に「ゆっくりでいいよ」とは決して言わないし「そのままのあなたでいいよ」とも言わないだろうと思います。
この世に天国と地獄が有ると思っている人には通じない考えだと思いますが、この世が幻想で無なのにその中で勝ち残ろうとか成果を上げようと血道をあげることはまさに地獄です。
私なら「変われるよ」「救われるよ」と言ってほしいです。単純に。
「奇跡は時間を短縮するものである」
それが原理だとあります。
奇跡をゆっくりやる、という概念はもう矛盾であり、その考え自体が葛藤を表しているのです。
ゆっくりやりたいというのは、自我のだいだいだい好きな隠れ蓑だなあと私は思います。
自我は「今はまだ赦したくない」と言っているのです。
それを「学び」だと主張するのは自我以外にあるでしょうか。
時間を遅延させることが害悪(恐れを助長し、幻想に沈み込んでいくこと)しかもたらさないことに私たちが悲鳴を上げて降参するまで、学びは、つまり赦しは、始まりません。
「赦さない間にもう少し自我のやり方を満喫しよう。それにもきっと意味があるはずだ」
というのがどれほど無意味な考えか、聖霊に尋ねてみてください。
「ゆっくり進めばいい」という思いの中には、多分の自己判断が混入していると言えます。であれば、その自己判断をよりわけて赦しの祭壇に上げるのが唯一の前進の方法です。
恐らくは「思うようにならないなあ」とか「これでいいのだろうか」という感覚があって、その背後には「進んだならこうなるはず」「こうならない自分はだめ」などの裁きがあっての「これでいい(ゆっくりでいい)や」なのです。
もし聖霊の完全な導きの中にいることを信頼していれば、ゆっくり進もうなどという考えすら浮かびません。そんなのは自分が決めることではないしそれが速いか遅いかなんてわかりっこないからです。
神の子は一切の妥協もしないし代用品で満足することもありません。
それをきついとか厳しいと感じるもの自我で、そのことが神の子である私たちにとっては最も優しく最も安心なのです。
「優しい赦し」とはそういう意味です。
自我にとって優しくやる、という意味ではありません。
神か自我か常にどちらかしかなく、選ぶのは今、この瞬間しかありません。
神を選ばないと言うことは即ち自我の中にすっぽり居るのです。二択ではないのです。
逆にものごとがうまくいっている時も同じです。
結果を見て「だからこのままでいい」というふうになれば聖霊の出番はなく、自我の自己完結があるだけです。
ですから冒頭に戻ると、世界が良くなっているように見えても悪くなっているように見えてもそれ自体に意味はなく、ただ自分に差し出された(心に触れた)ことの全てを「赦しの機会とみなすか」だけに価値があるということになります。
赦された人は赦しを差し出します。
赦された人はきょうだいに「ゆっくり進めば」とは決して言いません。
ただ「これを選べばいいよ」と言うだけです。
そもそもあなたのものだったものか、勘違いして持ち続けていたものか。
どちらを選びますかという問いさえおかしいのです。
だからそこには選択すらもないのです。
ただ、気づけばいいだけです。過去を握りしめていると言うことに。
そして意識して選び直すのです。何度でも。
それでもなお勘違いに意味があるかもしれないと疑う知覚を癒せばいいだけです。
感謝とともに
AZU拝