みなさん、こんにちは。
内側に一歩を踏み出した時、私たちが最初に見るものは「攻撃」です。自分が攻撃と防衛しかしてこなかった、という事実です。
私たちの本質が完全で愛しかない、ということを認識するための最初のステップはそれです。
そこを飛ばすことはできません。
多くの人はそこを飛ばして「自分は愛でありそれ(だけ)を認識していたい」と望みます。
するとどうなるかというと、自分以外の人や自分をとりまく状況はすべて敵だと認識されます。
「自分は愛だけど、愛である自分の平和を乱すのは外敵だ」というわけです。
その見方をしている限り、私たちは自我から自由になることはできません。
更に相手を敵だと認識しておいてこれを赦すことは矛盾していています。
実際には不可能なことを捻じ曲げて赦したことにするのです。
「赦したはずなのに平安にならない」状態の裏には必ずこういった自己欺瞞が隠れています。
この道順は誰の心にもあり得る過ちです。
ではどの地点で修正すればいいでしょう。
それは一番最初の地点です。
自分が攻撃したんだ、という地点です。
「自分が」というと「私だけが悪いの?」という気持ちが出るかもしれません。
でもそうではありません。
この自我が作った世界はみんな同じなのです。
それに気づいた人から脱出を試みなければなりません。
そこを脱出するにはまず「自分がどこにいてなにをしているか」に気づかなければなりません。
実際のところ、この第一のステップを踏むだけで、人生はとても優しくなります。
攻撃していることを認め、それをやめる選択をするのです。
ただご存じの通り、実際に攻撃をやめるということは防衛の砦を失うことと等しく、自我にとってはそれこそが恐れとなります。
その砦に代わってくれるものが「真の自己」つまり「完全なる愛」ということになるのです。
ここでやっと、自己の本質が登場可能になります。
それまでは自我の防壁が陣取っているので出る幕がないのです。
「私の本質は完全なる愛なのよね」と思うなら、少なくとも自我の攻防を選びたくない、別の選択があるはずだ、という僅かな気づきが必要です。
そして次にはその本質の力はなにものにも劣ることがなく、最良で完全な解決をもたらすということを体験する段階があり(これが奇跡です)
更には、奇跡とは偶発的なものではなく確実で常に起こるものだという確信と信頼という段階が訪れます。
そしてそうなった時に初めて「私が完全なる愛なら誰もがきっとそうなはずだ」というアイデアが真実味を帯びてくるのです。
これはとても簡潔なステップですが、自分で自分が今どこで何をしているかに気づくことは慣れるまで容易ではありません。
時には熟練者でも道に迷います。
でも、他者(に見えている自分自身)は鏡になって、それを見せてくれます。
敵だと信じ切って攻防している間はそれは単に襲ってくる外敵にしか見えませんが、自分が本当の自分に戻りたいという選択をしたなら、彼らは外敵ではなく「一番近道で案内してくれる教師」となります。
これは「投影」という幻想の世界から抜け出す最も確実な道筋です。
攻撃されていると感じるならそれは「自分が自我を選んでいる」だけです。
そう認識できたなら、それではなく「自分の本質に仕事をさせる」選択をするだけです。
それには「自我と同一化している」状態から一歩退いて、完全なる真の自己に任せ従うのです。
それがいとも簡単に機能することもあれば、なかなか難しく感じることもあります。
なぜなら自我はなかなかしつこくくずるがしこく誘惑するからです。
知覚は恐れが真実だと訴え、恐れには攻防が最強の手段だとそそのかします。
でもそれは嘘です。
長く暗い夢は覚めた瞬間に終わります。
その時に思うのは「なぜ夢の中で、その夢を良くしようと格闘していたんだろう。ただ目を覚まさせてもらえば良かったのに」ということです。
この世であたかも確実で効き目があり誰の目にも受けがいい「方法」として提示されているものの殆どは「夢の中の格闘に勝つ方法」です。
それは意味がないばかりか悪夢を長引かせ、悪夢の中に仲間を引きずり込むものです。
悪夢を続けるか覚めるかは、どちらを選ぶか。ただその選択だけなのです。