みなさん、こんにちは。
お彼岸の信州諏訪・岡谷市は、涼しいをやや通り越して「寒いなあ、もう一枚着よう」と言わせてきます。さすがです。
さて、59歳直前に前回記事を書いてから、こんなに長く書かなかったのは初めてじゃないかというほどの時間が経ちました。
それは、真理の分かち合いがとんでもなく忙しかったからです。
その間私の内側はいらないものが幅を利かすことも場所を占めることもできず、結果として喜びと驚きと幸せで満たされることとなりました。
ああ、自分の人生がこんなことになるなんて、ひとかけらの想像もできなかった。
ゆえに自分では計画も努力もしようがなかった。
神がすべてを与えるというのは本当のことだったんだ。
これが59歳とふた月弱生きた所感です。
そんなギフトと関係していると思われますが、夫がYouTubeにあげていた『奇跡講座』の音読を完了しました。
テキスト編に始まり、マニュアル編、付録部分、そして最後にレッスン1から365とエピローグで、初めてから実に3年弱が経ちました。
高校生が入学して卒業を迎えるくらいの時間ですが、恐らくそこでの学びは人の一生分をはるかに超えるほどの価値だったように思います。
私はと言えばもちろん、こんな機会はないとばかり毎日音読を聴きまくり、この際だとばかりに自分の内側での曖昧さの一掃に努めました。
そして当然ながら夫婦の話題とコミュニケーションの中心は奇跡講座であり、それは同時に人生のすべて、生活のすべてを「赦して」いく作業となりました。
それが冒頭に書いた「真理の分かち合いの嵐」というギフトをもたらしたことは疑いようがありません。
こうなってみると、やっと、本当にやっとこさ、私の準備は完了したのだ、というふうにも思えます。
父と子と聖霊とが全力で整え準備してくれた私を、本当にいかようにもお使いくださいという思いでいっぱいです。
みなさん、癒しは完了します。
それは「ひとつの不平も恐れも抱かずに、私をあなたの目的のために使ってください!それ以外の目的は必要ありません!」となった時です。
これは『ヒプノセラピストのための講座』で学んでくださったセラピストさんが私の前ではっきりと証ししてくださったことでもあります。
私はそれを見せていただいたときに、ああ、まったくもって「書かれている通り」なんだ!としびれる思いでした。
そしてみなさんがセラピストを必要とするときにはぜひ「癒されたセラピスト」を選んでいただきたいと願います。
今朝思ったことを書きます。
癒しにかかわる人の発言で耳にするのが「この世界には愛しかないんです」というような言葉です。
奇跡講座を教えている人でもそう書いていることはよくあります。
私はこのことに違和感を覚えます。
「私はもう癒されているから、皆さんを同じところまで癒せますよ」というアピールなのかな、と思えなくもありませんが、その言葉からは脅迫的とも言える「恐れ」が見て取れます。
恐らくこの世界で生きている人はみな、この世界が愛だけだとは思えていないはずなんですよね。
そして、愛が大事、愛でありたい、と願っている人ほど、この世界に不完全さを見ているはずです。
この世界は愛だ、というメッセージは、もしかしたら未来に希望を抱かせるかもしれませんが、(かつて私もそうだった)その希望は自分を傷つける一方だったし、周囲を憎ませるばかりでした。
つまりそのメッセージは「あなた方は未熟で不完全であるがゆえに、この世界が愛だとは認識できない。でも私はそれを悟った」と意図するものだと思えます。
少なくとも奇跡講座の伝える真理は、まったくもって何から何までその真逆のことを教えています。本当に何から何までです。
この世界で愛でいたいと考える私たちが、なぜ苦しみぬいて、他の人びとが享受しているかに見えるささやかな幸せや平穏のかけらさえ手にして味わうこともできずにいたのか。
この世に生まれてくるすべてのこどもたちが、愛のために生まれ、愛され愛するために生まれてくるはずなのに、生きるということがなぜそこから果てしなく遠くに私たちを「成長」させていくのか。
今ならそのからくりが鮮明に見えます。
多くの人がその出発点のほうを修正しています。
人生はそんなものではなかった、と。
生きて学ぶということは、愛以外の多くを身につけることなのだと。
でも本当は、正しかったのは出発点だったのだと今ならはっきりわかります。
この世界が愛なのではなく、私たちが愛そのものだったのです。
そして分離を生きるにあたって愛だけでは不足だという誤認識が誤創造したのがこの世界です。
訂正されるべきは、その誤認識だけなのです。
そうすれば誤創造された世界は取り消され、正しい認識が反映された世界を映し出すのです。
でも重要なのは映し出された世界ではなく、ただただ「私とはなにか」という認識だけです。
だから世界を変えるには、ただ自分がそれを思い出せばいいんです。
私はみなであり、みなは私だからです。
感謝とともに
AZU拝
