ラッキーなことにフジコ・へミングのドキュメンタリーと、何とかライブのクミコさんと上田正樹さんが見られた。 フジコ・へミングは、昨年彼女の自伝的ドラマを菅野美穂ちゃんが演じているのをちらりと見て(母を十朱幸代さんが演じていて激うまかった!)かなり共感してしまっていたところに私の事務所の社長からお誘いいただいて国際フォーラムで拝聴させていただきました。本当にすばらしかった。(一人スタンディングオベイションしてしまった。なんでみんな立ちたくならないの?) それからすぐに本屋で彼女のエッセイ「天使への扉」を見つけて読んで、完璧に彼女は「仲間だ」とわかりました。何が?・・つまり、精神がとても似通っていてあまりにその心情を理解できたということです。 彼女の長く光の見えないトンネルと己の才能と言う宝ものとそれを背負った重み・・こんなことを書くとまた「おまえとフジコへミングを一緒にするな」とかいうどっかのオヤジの声が聞こえてきそうですが、もうそういう声には聞く耳を持ちません。そういうことを言う人は、自分の飲んでる飲み屋でフジコへミングがピアノを弾いていたってきっとそのすばらしさなんてわからないに決まってます。きっと「ピアノうまいけど、顔がぶすだな」とかデブだばばあだとくだらないことを言って自分のうさを晴らして終わりです。そういう人は真の自分の価値とか人生の豊かさとかに注意を払ったことがないのでしょう、たぶん。 私は自分のパーソナリティとか世辞には疎いですが、才能とかそういう神から授かったものに関してはよくわかるのです。強いて言い訳するなら私はそういう家庭に育ち、才能というものを目の当たりに暮らしてきたし、私の家族はみんなそういうことはわかります。 もっと言えば、才能とはすばらしいものだけどそれは天からの授かり物です。その人が偉いわけではありません。それを生かすも殺すも自分しだいです。それをエゴのために使えばそれは毒にすらなります。私はそれを腐らせない方法をひとつしか知りません。それは他に与え、奉仕のために使うことです。人は才能をあぶく銭のように使ってしまいがちです。するとそこには大きなしっぺ返しがやってきます。そうして多くの天才たちは何かに縋り溺れ、命を落としていったのです。ピカソのように、己の才能とうまく付き合い才能とともに偉大な人格に成長していった人は稀だと思います。なぜなら才能は人格が成長するより前にもうそこにあるからです。人間性の方は成長するのにとても時間がかかるのです。 フジコさんも長いこと自分に才能があることを知りながら、そういった言葉の暴力や世間の無理解に耐え忍んできたことが彼女の一言一言からにじみ出ています。 彼女の救いは本当に神のみこころを信じることと猫だけだったのではないでしょうか。 彼女の奏でる音には人生の大半をかけて交わしてきた神との濃密な約束に対する思いが込められています。諦めず、かといって誇示せず、知っていることだけを守ってきた彼女の真実だけがそこにあります。 シャンソン歌手のクミコさんを知ったのも確か昨年のことです。メディアに登場するようになって彼女自身まだそれほど経っていないはずです。 私が彼女を初めて見たのは彼女の持ち歌でなく懐メロ特番みたいなので彼女がフォークソングを歌っていた時でした。私はめったに他人の歌を「うまい」と思わないのですが(特に日本のテレビでは。子供の頃、上月晃さんが「メモリー」を歌っているのを聴いて「ほんとうまいなぁ」と思ったくらいで)わぁ・・この人歌がほんとにうまいなぁ、こんな人がテレビに出てるなんて。どこからこんなうまい人を連れてきたんだろう?と思ったのが出会いでした。 私はテレビをあまり信用していないので、無名のこんなうまい人を探し出せるはずがない。きっと昔から有名で実績のある人で私がたまたま知らないだけだろうと思ったのです。 でもそれから度々彼女をテレビで見かけるようになって、彼女の持ち歌を聴き、彼女の自伝的トークを聞いてなるほど~~~!と納得したのでした。そして、日本にもようやくこういう時代がやってきたのね~!綾戸さん、クミコさん、ありがとう!と思いました。 クミコさんの歌には本当に歌を体の中で練り上げてきた来た人にしか出せない奥行きがあります。こういう風に歌おうとか、人にこう見せたいとか聞かせたいとか、そういう欲みたいのがもう昇華されちゃってるんですよね。例えば今の彼女がステージに立って、今日はすごく元気がないとか、愛する人を失ったとか、癌で余命3ヶ月を宣告されました、とかいう時だったとして、ああもうどうなってもいいやと思う中で曲が流れ始め、彼女がとんでもないおかしな声で叫んだとしても、気の抜けた声で呻いたとしても、それは「いい歌」になってしまうだろうと私は思うんです。彼女自身は見た目もちょっといかした普通の女性です。歌もすごくナチュラルです。だけど私にはそういう、細胞一個一個切り離してもその中に歌がある、みたいな凄みを彼女から感じられるのです。 私が今毎日立っているステージは、今の彼女から見た長いトンネルの中と似ているかもしれない。彼女は今本当にやってきて、やめないでよかったあぁぁあぁぁ~と思っているだろうと思います。でもそのトンネルの中にも、いい時も悪い時もあっただろう。何かを掴んだ瞬間をたくさん体験したはずです。その体験の中で彼女の体の細胞はいっこいっこ開花し変容し進化していったのだと思います。 私がまもなく40歳になろうとして、私は歌一筋ではなかったけど、広い意味で表現者をどっぷり追及して生きてきて、今の自分に望むのはそういうことです。 細胞レベルまで変わってしまえばそのオーラはそう簡単には崩れない。 私はもともとオーラありきのタイプだったけど、そのオーラを肉体の細胞レベルに浸透させるにはやはり鍛錬以外にはないのです。 芸術におけるテクニックとはそういうことなのではないかと思います。小手先でこう見せるとかこうやって見せる、なんてのはテクニック以前のもの。ハートにあるものをハート任せに演じるのではなく、からだ全体がハートであるようになっている。その時表現者は真に自由に演じることができます。 どんな風に歌おうがそれすべてがその人であるかのように歌う。その声すべてがその人そのものであるように。 最近は酒場で歌っていても【わたし】に気づいてくれる人は結構たくさんいます。 きっと私の声が私そのものに近づいて来ているんだと私は思うのです。