みなさんこんにちは。 人生できる限り正直にあるがままに生きたいので、できるだけ遠慮なくぶっちゃけて書いていきたいと日々思う私です。わりと控えめで臆病なので色々なことに気を回してしまってわりと見えない制限を自分で加えていることによく気づきます。たかが私の個人のブログなのですが。
うちはテレビを見ないのですが、プロジェクターがあってそれで家の壁に映画を上映して鑑賞しています。私は元々映画好きです。私の母は結婚前、あの時代に週に6本見ていたと言っていました。父は職業柄家ではいつも真剣に映画やドラマを見て、そして文句を言ったり本気で怒ったり、感心したり、子どもの頃から家の中で批評を聞かされて育ちました。
よく思い出すのが山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」をテレビで見ていた時に父が「しかし桃井かおりって女優はうまいな」と言ってどこがどんなふうにすごいかという話を私にしてくれたことです。その時父は桃井さんの「ねえそれじゃ、夕張まで行かない?!」というセリフを例にとって解説していました。こういうことを詳細に覚えているところなど(妹もそうだと思うけど)本当におかしなことだと思いますが、こんな感じで私の役者の血は大人になるまでにどんどん熟していたわけです。
私はすでに桃井ファンだったので、自分の価値観が認められたように嬉しくて内心うわぁという気持ちでした。父は新劇出身の、スタニスラフスキー・システムの申し子のようなくそ真面目な役者さんだった(と私は思っていた)ので、そんな父が桃井さんの変則技に心底感心しているのを見て目からウロコのような嬉しい気持ちでした。
しかしいつもこんなだったわけではなく、父がテレビを見ている時は私たち子どもは音を立てたり喋ったりしてはいけないルールがあり、子供らしく騒いだりすることは許されず、もし父の気に障った時は力石徹のあの声で凄まれたりして本当に怖かったものです。力石徹のあの声、リアルに怖いですよ。父は常に本気ですから(笑)
少し前に私の演劇専攻時代の先輩であり同級生である(留年して同級生になったわけですが)Sさんがうちに来てくれて、ナカムラミオ(当時の私)とはどんなやつだったかということを真剣に論じてくださいました。すごく真剣で鋭かったのでもう私の半生を統括してもらったような面白さがありました。その中で、なぜ大学生の当時からあんなにも自分の世界が確立されていたのか、という点を論じられた時に振り返ったのは、やはり父のあの芸に対する真剣さ、芸(表現)は自分そのもの、というあの感じが自分にも当たり前のように身についていたのだということを思い出します。
仕事のことを一切家に持ち込まないお父さんも世の中には多いと思いますが、我が家は全部持ち込む派で、お陰で、声優界の大御所の皆さんのお名前はすべて知っていましたし、どんなことをどんなふうに発言なさったかまでかぎかっこ付きのセリフのようにうちで再現されていました。母はいつも「聞きたくない」と言っていましたが、とにかく父は全部しゃべらないと気が済まない人でした。
よく、芸事は習うのではなく盗むものだといいますが、それは本当だと思います。師匠の背中を見ると良くも悪くも色々なことがわかります。私は子どもの頃から何らかの芸事をする人を目指していたので、その盗む芸はその頃から始まっていたと思います。Sさんにそういうことも話ましたが、それを自覚している事自体が異常だと言われました。例えば小学生の頃から泣いている時に鏡を見て確認したり、マンガや本、テレビのあらゆるセリフを自分だったらどう言うかというのは常に練習していました。すべてのそういうものは練習台だと思っていました。そして自分の方が絶対いい感じに言える、といつも思っていました。
そういう中で、衝撃的に現れたお手本は大竹しのぶさんや桃井かおりさんでした。他にも当時はすてきな女優さんがたくさん活躍していましたし、テレビドラマも本気で良い物がたくさんありました。最近では満島ひかりさんという沖縄出身の女優さんが「刺すような役者でいたいと思います」と発言なさっていましたがあの頃は刺すような女優さんがたくさんいました。そういうのに刺されることは喜びでした。他にもショーケンさんや松田優作さんや原田芳雄さんや石橋蓮二さんや刺す役者さんはたくさんいて、もっと、もっと、もっと本当のことはないか、もっとリアルな表現はないか、もっと刺さる表現はないかと探すことに必死な人とその人達を活かせる飢えた監督さん演出家さんもたくさんいたと思います。
今はいないわけではないのでしょうが、もうなんというか、そんなものを求めてないのが世の中なのだろうと思います。
近年はショーケンさんもかっこ悪くなった、ヤキが回ったと思われているかもしれないですが、「ショーケン」という本を読むとショーケンさんがどれだけすごい人だったかということがよくわかります。桃井さんが[ショーケンさんに育てられた役者は多い」とおっしゃっていますが、その彼の「見ている」目は本当にすごいなと思います。あれは、愛です。近くにいたら、愛されていると感じてしまうだろうなと思います。彼らのような役者さんが出ている作品て、役者のパワーがすごすぎて、だいたいストーリーとかあまり頭に入ってきません。一挙一動が面白すぎて、頭でストーリーを追いかけることを忘れてしまいます。そしてその感触がじかに潜在意識に刷り込まれてしまうので、シーンや言葉やトーンがそのままある感覚として記憶されていくのです。そういう作品は私たちの意識を変える力を持ちます。演劇も映画も、そういうものがすごいものだと私は思っています。
以前にも書きましたが、高校生の時に、演劇を目指すと決めた私を父が仲間の芝居に連れて行ってくれました。津嘉山正種さんがいた青年座やいろいろ。その時に劇場の客席の重い扉を開きながら「美緒、こうやって劇場に入る前と出てきたあとでは、その人の人生は少しだけ違っているんだよ。それが演劇なんだ。」と言いました。私は今でも芸術とはそういうものなのだと思っています。だから、潜在意識にまで入り込んで、リアルな夢のように私たちの記憶を塗り替えたり、想像力をかきたてたり、人生観に色彩を加えたり、そういう作品が、本物だというふうに信じています。
そしてその作品の多くは娯楽です。その娯楽の中で私たちが培えるものといったら「想像力」だと思うのです。想像力は思いやりとも言えます。思いやりはある種の愛の表現です。
演劇の目的は「浄化」にあると、私は大学の(ダサマの演劇史の)授業で教わりました。神の視線からみた人間界のエゴのドラマに自己意識を同化させて心を開いてそれを観ることで、私たちは自己の内側にあるなんらかの「思い」に気づくことができます。それを実際に実生活の中で行わなくてもその登場人物に寄り添うことで、その思いを感じきり、そして乗り越えたり卒業したりすることができるわけです。実体験に叶うものはないという人がいますが、私は想像力に叶うものはないのではないかと思っています。人間の脳は、リアルに想像したことと実際に体験したことの区別がつかないという特性があります。それを利用したのがヒプノセラピーなわけですが、身体はロボットのように感じたことに反応します。ですから私たちはなにを感じるか、なにを信じるかということが実際どうであるかと同じように重要なわけです。
私たちは想像する生き物です。その想像力を破壊にも創造にも、友愛にも保身にも使うことができます。
苦しい時代になってきたので、真のいい作品が世に必要とされる時代が来るかもしれません。残念ですが、往々にして世の中はそういうものです。そうならないうちに私たちは自らの叡智を養いさらなる発展にエネルギーを使いたいのですが、なかなかそうはなりません。生きることが楽な時代には私たちは心を甘やかし堕落するもののようです。それでも、内側に愛と叡智を蓄えながら養いながら、私たちは少しずつ、後退もしながら前身することでしょう。今日も生きていきます。