私は今になっても右翼と左翼の明確な定義がよくわかりません。先日もそれでググって調べていました。脱原発は左翼だ、というようなことを公人が言っていたりして、私も脱原発賛成なので左翼なのかなーとか、政治家の発言を聞いていると、まともだなーと思うのが共産党だったりして、私も共産主義者なのかしら、とか、一人で突っ込んだりしています。でも強いて言えば私は自由と平和が好きです。既存の言われているものではなく、より本質的なそれ、を志すものです。
右と左は根っこは一緒、という意見もあります。左翼とは正義感がやたら強いバカ、と定義している人がいて笑いました。右翼は自国の伝統や歴史に誇りを持っている人、とか軍事国家主義とか愛国者とか・・・。元公安の菅沼さんという人がおっしゃるには右翼の運動しているあの大きな音を出す車は暴力団の資金稼ぎで、その内部は在日朝鮮人や被差別部落出身の人が多いとのことで、いわゆる右、という思想と一般に見かける右、また政治におけるそれ、は実態が一つではないようです。そしてどうやら一方が他方の悪口を言う時に使う言葉でもあるようです。だから絶対的な意味も実態も本当はないのかもしれません。
311が起こり原発の問題は潜在的に在る社会の構造と歪みと汚染をあぶりだし続けているように思います。311がきっかけで意識の内面に目覚め始めたという人は実際にとても多く、私のところへみえる方からもよく伺います。結局のところ、この世は菌の世界と似ていてこの菌バランスによって世相が形作られているように思います。ただしそれは考えによってではなく、内面のエネルギーによります。考えていることというのは潜在意識の100万分の1と言いますがその通りで、潜在意識にどういう信念を保持しているか、その保持している信念のエネルギー(振動)で全体=集合意識の様相が決まります。決まりますといってもこれはとどまることなく変化し続けていますが。
人間はうにゃうにゃと変化し続ける流れに流されるようでいて、その流れそのものを作るファクターにもなっているわけです。そう考えると、社会を変えたいのであればやはり自分の意識が変わること、具体的には広がることが重要だと思います。何かを否定し別の何かになるというイメージより、より広がる、より高いところから全体を見渡し、決意すること、意図することで、要は「どんな思いを信じるか」で全体は変化していくはずです。
私がよく、自分を幸せにすることが一番大事、というのはこのことです。私で例えるなら、私は以前心のなかに想念がいっぱいに詰まっていた時には、願いや思いや意志や意図はことごとく実を結びませんでした。祈りというのはなんと虚しく踏みにじられるものだろうと思っていました。何度か書いたことがありますが、神をも呪う気持ちがありました。それが今ではこんな人になってしまいました。(笑)この差はなんでしょう。
要は自己意識=潜在意識のお掃除をせっせとした結果です。人間の自己意識にはものすごい思い込みが詰まっています。例を挙げるとキリがないほどですが、例えば、AさんがBさんに「絵がうまくてすごいね」と言うと隣にいたCさんは自分の悪口を言われたように感じる、というような感じです。誰もCさんを悪くなど言っていないのですがCさんは勝手に気分を害したり落ち込んだり傷ついたりしています。CさんがAさんに好意を持っていたり高く評価していたりまたBさんに元々少しライバル意識を持っていたりすればそういう思いは強くCさんを揺さぶったり苦しめたりします。この時Cさんの心の奥には、自己評価に対する思い込みがあります。自分で自分の価値を認めることが難しいので誰かの評価を必要としています。また、好きな人に愛されたいと願うことは普通のことですが、好きな人に高く評価されないと愛を得られない、という信念もあるかもしれません。これは幼少期にお母さんとの関係の中で作らる反応のパターンであったりもします。お母さんに評価されないと愛を得られない。お母さんの愛を得ないと自分には存在価値がなくなってしまう、という恐れを子どもは生存の本能と愛情欲求の双方の動機から強く信じる傾向があります。そういった信念は問い直されることなく人間の潜在意識の中で生き続けて別の人間関係に投影されていきます。
今のは思いつきで書いた例ですが、心はあらゆる場面で自己評価、存在価値への思い(込み)と照らし合わせながら反応し続けています。ですから、個々の価値観というものは白か黒かで分けることのできないものです。ほぼ、愛情欲求と自己評価と生存本能の感覚的な記憶からくる反応なのです。
例えば私の傾向を言えば、きれいなもの、美しい言葉、またシンプルな正しさというものが好きです。これは、これだけとれば美点のように見えます。しかしその奥の動機を見ると、ここなら安全で安心だというエゴの傾向も含みます。不安を埋めるためにはきれいで正しいものを求めるという傾向があります。ですからとてもごもっともなことを一生懸命に主張している間にとんでもない罠にハマっている、というようなことは起こり得ることです。こういう傾向は、今の社会問題を解くにあたってとても注意しなければならない部分だと改めて感じています。このように何事もある傾向には両極や多面的な可能性が含まれるものであって、それ自体に良し悪しはないのです。
そこで、この世はどうせこういうものだ。だから欲望のままに生きようとそれを信じる人もいるかもしれませんし、またそれでももがきなからがんばって生きようと思う人もいるかもしれない。できるだけ波風立てずに、とか、自分を取り囲んでいるごく狭い範囲に視界をフォーカスしてそれに対応し、あとは起こったことにだけ対処しようというやり方もあると思います。どれもごもっともです。そしてそのどの方式を選んだとしても結果は大差ないのかもしれません。
そこで、です。では、なぜそうしてまで人間は生きるのだろう、という問いが意識の中に浮かんではこないでしょうか。
私は人生の旅というのは本当はそこから始まるのではないかと思うのです。人間が人間たる所以はなんだろう、という問いです。スピリチュアルの問いかけというのはここからしか生まれてきません。ですから、スピリチュアルというのはライフスタイルや生き方の選択肢ですらないのかもしれません。それは外側を見て考えているだけでも旺盛な生命力にまかせて生きているだけでも決して出会うことのない根源的な問いかけに耳を傾けることです。その問いかけの答えを探し求め、みつけ、そしてそれを手放し、生に没頭し、また気づき、実践し、考察し、また手放す。こうしていると全体は熟成し形を成し、またその形を意識が超えていき、形は破壊される。こういうふうにしか人間宇宙は進化しないのかもしれません。ですが、この体験をするとしないでは世界が違います。また小さな一つの選択に、真実の愛を持って行えるかどうかも違ってきます。
私はある頃から愛という言葉を率直に使うようになりましたが、愛とエゴという言葉は本当に一般用語として一般通念として使うことが難しい言葉です。エゴに凝り固まったあの人、という言葉は同時にエゴに凝り固まった自分を指さします。でもそれは悪とも利己主義のこととも違います。あの人が見えない時、私たちは自己を見失っています。ただ、そういう視点に立っているだけです。見えなくしているものの後ろに自分が隠れているだけです。
私たちが意識しようがしまいが私たちはスピリチュアルな存在ですし、神から愛され生かされています。ですが、それを意識しないうちは私たちはそう生きるしかありません。そしてその人が作る世界はそれです。その気づきがいつどのようにして訪れるのかも自分で気づくしかないことです。私たちはそういう意味で自由です。しかしその自由というのは不自由さを選ぶ自由という意味です。
意識すること。意識する自己を意識し、意識している意識を意識し、その意識である自己を意識すること。意識の拡大というのはこのようにしてなされていきます。私たちの意識が気づきによって拡大していくことが進化であり、社会の進化というものも結局はその進化を映し出す幻想にすぎません。拡大した意識はどこまでも、「それをも愛する」のだと私は思います。