AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]沖縄 心のセラピストAZUからのメッセージ

愛を知る

神さまは人間の思惑とは全く違った叡智をお持ちです。

私たちは人生をかけてそれを探究することができます。

もし人生を少しでもつまらないとか価値が感じられないとか思うのは、それは人間が神を知らないからですし、神を知ろうとしていないからです。

 

ですが人間には過去のカルマの宿題があり、それに追われている間はなかなか神の本当の姿が見えません。

宿題をやらされている状態でいると私たちは神の新鮮な喜びを体験できません。

人はそれをよく、神さまからの罰だと勘違いします。

 

一番は、宿題を神に手伝ってもらい、神を喜ばせるために積極的に取り組むことです。

全ては神からの訓練だと理解することです。

(セッションはそのためのお手伝いです。)

 

神から離れてそれをすれば、それは単なる苦です。

けれど神からの口づけだと理解するとき、それは内なるキリストとの共同作業になります。

 

苦には、消極的な死、霊的怠慢、退屈さ、逃げなども含まれます。

これらは日常の中に知らないうちに共存しています。

共存と言っても魂と自我が分離している状態なので、社会でなにを達成したとしても満足を知りません。

生かされている感謝を感じることもできません。

でも自分は本当は神さまのものです。

命は自分のものではありません。

自分の命を持て余すのは、それを忘れているからです。

 

神は気まぐれな愛ではなく、完全な永遠の愛をお持ちです。

私たち人間はその愛をお手本に、学ぶためにこの世にいます。

学ぶというのは、自分のものにすることです。

 

人の愛は気まぐれです。

思うようになれば愛されていると感じ、思うようにならなければ愛されていないと感じます。

どんなときにも愛されているというのはどういうことでしょう。

自分のあらゆる面を愛することからしか、それは理解できません。

自分を愛するのは、人生をうまくゆかせるためではなく、神の愛をよく理解するためです。

神から愛されているように、神を愛するためです。

気まぐれな愛ではなくて、神のように愛するまで、そのレッスンは続きます。

でも神とのマンツーマンのレッスンは、この世で最高に幸せなものです。

愛を込める

「私たちは偉大なことはできません。偉大な愛で小さなことをするだけです。」

これはマザー・テレサの言葉。

真理を学ぶとこの言葉の真意がだんだんと心に沁みてくる。

マザー・テレサは偉大な行いをした人として知られているように思う。そして彼女をそのように認識していた頃、私はほとんど彼女に興味がなかった。

真理を求めているうちに彼女の言葉が私のハートに勝手に入って来るようになった。

 

愛は神から来る。

私たちは小さく無力な行いに神を招き入れることができる。

 

神(愛)という得体のしれないものをどう理解しどう受け入れるのか。

「まずは分析してからどう使うのか決める」という現代の思考が、壁となる。

しかしまず求めてさえみれば、神(愛)はあらゆるどのような道筋からも私たちのところへやって来る。

それが神のやり方。

 

お茶碗を洗いながら神(愛)を求めることができる。

その行いに神(愛)を招き入れ、神(愛)に触れ、神(愛)を込めることができる。

神(愛)は無限によくできている。

 

マザー・テレサはまさにそのように働きなさいと私たちに説いた。

 

私にはもっと別の道があるのではないかと悩むのなら、今やっていることの全てに愛を込めてみようと試みるといいかもしれない。そしてそれを「いったいどうやって?」と思うのなら、その理解そのものを神に求めるといい。

 

そしてちっとも込めることができないようであれば、それができるまで全力を尽くせばいい。

そしてそれが当たり前になる頃、神が踏み台を準備して、次のステージを差し出してくれる。この世は必ずそうなっている。

 

そうしてみるまでは、いくらステージを移り変わったとしてもやるべきことは同じになる。次々ステージを変えてみて、それはごほうびの先取りになってしまう。

 

神(愛)以外のなにに頼ってみても、神以上にこの世の仕組みに詳しいものはない。なぜなら創ったものが神だから。

神を知っていると思う人は、神が何を望むかもっと知りたくなるだろう。

神は私たちの愛だけを必要としている。

神のものとして愛を生きるようになるように私たちに求めている。

 

神とのレッスンはとてもとても楽しいものだ。

人はいつもわかりやすいかたちを求めるけれど、いったん神のやり方を選んでしまえばそのほとんどはいつもわかりやすい。

真理が単純であるように。

必然

なにかの出来事に反応して怒る、ということを私はやめた。

やめたというのは、もしそれが体内に起こったとしても、それを奨励したり肯定したり信じたりしないということだ。

それは単なる反応であり、単なる習慣であり、そして私は別の創造の道を選ぶ。

神の創造に任せる。

その反応であり習慣であるものの役割は、広い意味で身を守る、つまり正当化するためのものだ。

怒るという反応が体内に出てきたときは、私の中に残っている古い概念を点検しお掃除する機会を与えられたと理解し受け入れる。

時には一瞬、時には時間がかかる。しかしそれが機能しないことはない。

 

こどもの頃からよく、理不尽さというものに涙を飲んだ。

それは幼いきょうだいげんかに始まって、親の八つ当たりや学校のルール、先生という大人の都合、心ない言葉、暴力と逃げ。

正しいと思う考えはいつも退けられた。

私は正しさに優る正しさを、強さに優る強さをこの世でみつけなければならなかった。

正当性妥当性有用性あらゆる価値判断に優る価値。

それこそが神であり愛だ。

 

私という限界はすぐにやって来る。

自分のやり方、つまりエゴのルールに基づいて自己を守るやり方には限界があり、それは常に、強いものが勝つ。

弱いエゴよりも強いエゴが勝つ。

より強固な剣で迷いなく裁くものが勝つ。

声の大きな者の声は聞き届けられ、ささやきはかき消される。

 

その声に惑わされているうちは、内なる小さな声が聞こえない。

耳を傾けるべきその声が。

 

怒りも正当性も悪すらも大差ない。

内なるささやきのその真実の光の前では。

 

神の愛にすがりそのやり方に従うと、限界を超えて道が開かれる。

強さや優劣や正当性というものを超えた真実が開かれる。

 

怒りは体内の記憶の中にある。生き物の歴史の中に。意識の集合体の中に。

けれど私はそれに代わる守護を選ぶ。

怒りの鎧を手放すことを。

その鎧の役割が免責されることを。

優ろうとする強固な壁が取り除かれることを。

私ではなく、そのすべてが創り主によって為されることを。

私がその道を歩めることを。

その道に裁きはなく、赦しだけがある。

そこには自由があり無限が在る。

 

全き愛を選ぶことで、私たちは身体に刷り込まれた正当性のルールから離れられる。

順番はそうでなくてはならない。

あらゆるセラピーが、癒しが、或いは探究が、そうでなくてはならない。

なぜなら私たちは弱い生き物だから。

 

守られて初めて自由になれる。

自我に守らせるのか、真我に守らせるのか。

真我を知らない限り、自我を離れられない。

真我を求めない限り、自我の中で自我を乗り換えている。

しかしその乗り換えすらも幻想に過ぎない。

 

自我は羊の群れのようだ。

無理やり追いかけても散らばるだけ。しかし愛を込めれば着いてくる。

神を求める羊飼いはいつも愛をこめて羊と向き合う。

しかし羊飼いは羊の従者ではない。

神の従者である。


ブログランキングに登録しています。 クリックで応援よろしくお願いいたします。

公式サイト→トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]沖縄 心のセラピー

AZU WORlDⓒ2006-2018