AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

自己を癒す道

みなさん、こんにちは。

昨日から新たに「ヒプノセラピストのための講座」が始まりました。

この世的には信じられないような導きで出会わせていただいています。

でも神聖さの中で見るなら、それはいつも自然で完璧です。

受講してくださる未来のセラピストと、関係の方々に感謝いたします。

 

私のような仕事は本当にいかようにも捉えられます。

ホームページにも書いていますがヒプノセラピー催眠療法)は瞑想がそうであるように、人体や脳、記憶といったメカニズムに沿った、とても科学的な療法です。

 

セラピー(治癒・治療)とはひとことで言えば、「自分自身への誤解を解くプロセスを進むこと」です。

変化するのはいつも「自己認識」だと言えます。

自分が変わる、心を変える、世界を変える、などという表現にはいつも誤解が付きまといますが、それはその中心である自己認識に誤解があるからだと言えます。

 

そして、あらゆる病の根源は自分への誤解だということです。

つまり根源は意識であり認識なのです。

 

この世ではそういった「そもそも」の部分が隠されていて、切り離された一部分を見て、その部分を更に分割したり入れ替えたりすることを「治す」あるいは「直す」ことだと理解されています。

 

私たちは自己認識に見合った世界を見ています。

外に見える問題は、自分が持っている認識に見合った投影、つまり自分の心が作り出したものです。

 

もし「ほんものを見たい」と望むなら、私たちは投影の元となる誤解を解き、本当の自分に戻ることができます。

 

ですからセラピーはすべての人に適用できますし、本当の本当は、すべての人に必要です。

私は自分自身を癒すプロセスで、そのことに気づきました。

 

ヒプノセラピーは、昨今の流行モノではありません。

古代から医療として用いられ、人々とともにありました。

 

この世界でのコミュニケーションはすべて暗示です。

私たちは誰かの目線によって卑しいものにも尊いものにもなりえます。

それは暗示を受け、そのようになっているということです。

敏感で生きづらいとされている人々が苦しんでいるのも、根っこまで掘り下げるとこのメカニズムにいきつくはずです。

 

もう一段階掘り下げるなら、その暗示は自分が自分に向けたものだとわかります。

いかなる暗示も、自分が受け取りを許可しなければ効力を発することはできません。

そしてそれは、自分で自分に向けることなしに、他者から発せられることはないのです。

 

私はそんな許可した覚えはないと思われるかもしれません。

まして自分で自分に呪いをかけるなんてありえないと思われるかもしれません。

確かに、それは無意識に近い状態でなされます。

そういったものの集積が潜在意識と言われるものです。

 

自分が自分に対して無意識に行った誤った呪縛を解くこと。

自分に対する愛とは実はこんなことなのです。

難しく考える必要はありません。

無意識であるがゆえに自分に隠されているという点だけが、難しく見える理由です。

 

しかし私たちの内には、そもそもそこに備わったほんものの正しい自己意識があります。

それはすべての誤りを自然にあっという間に修正し、本来に戻す力を持っています。

それを、神や愛や真理、聖霊、キリスト、実在、超意識、魂、ハイヤーセルフ、本質、宇宙などと、名付けて呼んでいるということです。

実際は根本の創造の源である神と、その被造物があるだけです。

その被造物とは、神と同じ質のスピリットです。

ですから心だけが被造物なのです。

 

でもそれらの名前には、分離した自我たちが各々の感覚でくっつけたイメージが付きまとっています。

ですから神の子としてのコミュニケーションを取り戻さない限りは共有することはできません。

 

必要なのは、真に見たいと望むこと。

真に見たいと願うには、真に見ていないと気づくこと。

それだけではないでしょうか。

 

もし真に見ることを選らんだら、攻撃は不可能になります。

そして真理はきょうだいのうちに延長されていきます。

 

今日一日、攻撃をやめることを望んだら、その時初めて私たちは攻撃しかしていなかったと気づくのです。

気づいたとき、果たしてこれは今私が選ぶべきものだろうか、それとも違う選択肢があるのだろうかという問いが生まれます。

そのもう一つの選択肢が、あなたを癒す道です。

 

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]

◎次回のオンライン瞑想会は3月3日㈰午前10時からです。

お席は充分にございます。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

◎すべてのセッション、講座は直接対面またはオンラインでご対応できます。

人生のゴール

かつて私は、この世から消えたいと思ったことがあります。

死を選ぶというより、それも選びたくない。

選んで実行するなんてしんどい。

そんなんじゃなくて、ただ消滅したい。

私は過去に結構な回数と時間、そんな思いに囚われていました。

後にセラピストとして皆さんとお話すると、全く同じことを何度もうかがうことになりました。

 

死について考えることを人は避けがちです。

直面していないことはなんでも、直視なんかしたくありませんよね。

でも思うのですが、直面しているときはなおさら直視したくないものかもしれません。

 

なんでもそうですが、恐ろし気なものは直視するとほとんどの場合怖がらなくてよくなります。

直視せずになんとなく容認してそばに置いておく、みたいなことが一番危なっかしいものです。

(今ならわかるのですが、肉体を消滅させることはリセットにはなりません。・・・)

 

真理に出会うはるか以前のことです。

自殺は一番の罪に当たる、というようなことは当時から耳に入っていました。

それをやってしまうと地獄に堕ちる、というような。

けれどそう言われても、苦しみが消えるわけではありません。

 

そんな時、自分の葛藤をいったん終わらせてくれたのは

「自殺は、永遠に許さないという行為である」という言葉でした。

クリスチャンの小説家、曽野綾子の本にあります。

 

この言葉は私にとって強い力がありました。

少なくても地獄に堕ちるのが嫌なら踏みとどまれという教えよりずっと説得力がありました。

 

私たちは、自分を所有しているのは自分だと思っています。

自分のものは自分の自由にしていい。

自分に処する判断は自分でする。

でもまさか、それが誰かを、何かを、世界を、永遠に許さない宣言だとは。

 

当時私は存在すること自体がこの世から何かを奪っている、と感じていました。

酸素を消費し、水を汚し、他の命を奪って自分を生かしています。

肉体は究極確かにそうなのです。

消滅はこの世で最も控えめで害がなく、謙虚な選択肢のようにすら思えました。

 

一方で、奪うことを当然の権利のように受け取り、生きることを当たり前に生きている人を傲慢と見なし、多くのそんな人を多分、私は憎んでいました。

自分がいつかそちら側に移り、生きやすくなることをどうしても望めませんでしたし、どちらであったにしても自分には耐えられない気がしました。

挙句の果てに辿り着いたのがそんな選択だったのです。

 

ですが憎んだまま消滅することは確かに永遠に許さない行為であり、それは復讐の一形態なのだということはとても納得がいきました。

そしてそれは自分の望んでいる「愛」と、最も程遠いところにあることだということも漠然と理解しました。

 

だからすぐにすべてを許そうと思えわけではありませんが、少なくとも永遠に許さないという決断はしたくないと、その時心から思えました。

 

今振り返るとその当時感覚的に漠然と理解したことは、すべて真理からくるものだとわかります。

 

対立するものは愛ではありません。

対立するどちらかが愛であることはありません。

対立が終わると、愛が見えます。

でも、愛はずっと変わらずにあり続けています。

 

対立を終わらせるのが赦しです。

 

ですから自殺は罪というより、死によって対立を終わらせられるという誤解からくるものです。

 

この世の認識は死をもとに、この世の法則は罪と罰をもとに、構築されています。

死を望むかどうかにかかわらず、この世での私たちの人生のゴールは死だとされています。

そうであれば死は、希望や前進、繁栄や栄光や愛の、すべての終わりです。

そんなもののために誰が本当に愛そうとするのでしょうか。

 

でも、私たちは本来、そんな世界の住人ではないのです。

そんな世界を赦すことが、赦された世界が、私たちのホームです。

 

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]

◎次回オンライン瞑想会は、2月18日㈰午前10時からです。まだお席ございます。今晩8時まで受け付けております。

◎個人セッション、意識の仕組みを学ぶ講座、ヒーリングなど対面、遠隔、オンラインに対応しています。いつでもご相談ください。

 

感謝とともに

AZU拝

癒しの教科書3

癒しの教科書は、実用書です。

精神論でもないし、ハウツーものでもありません。

真理はすべての人のすべての事柄に完全に適用できます。

「これは私についての書です」と、しまいには誰もが思うようになると思います。

ちなみに私は、そう感じています。

 

例えば。

こどもがあるとき「学校に行きたくない」と言ってどうしても行かなくなったとします。

お母さんである私は、「あら、どうして?」と反応します。

そしてこの子を学校に行かせるためにいろいろなことを考え、努力すると思います。

いいお母さんですよね。

でもこどもは、芳しい反応をしてくれません。

お母さんの葛藤は続きます。

 

お母さんは誰も、愛でいなければと心のどこかで思っています。

そして、問題が起こったのは、私の愛が足りないのかも、とどこかで恐れています。

 

こんな時、愛であるということはどんなことなんでしょう。

 

初めに巻き戻します。

こどもがある日「学校に行きたくない」と言ってどうしても学校に行きません。

「あら」

 

ここでまず言えるのは、こどもが学校に行かないことは「何か良くないことが起こっている」と、自分が反応している、ということです。

 

この時点で私たちは完全防衛モード=自我に入っています。

そうなんです。

ですからこの後、どんなに冷静に、優しく、愛があるかにみえる対処をしたとしても、それはソフトな戦闘なんです。

 

投影のシステムを理解している人でも同じです。

 

あら、この「良からぬ問題は、私の中のどんな問題を投影しているのかしら」

そして「相手を変えるんじゃなく、まず自分が変わらなくちゃ」

これは一歩進んだ見方に見えます。

 

でも、最初に時点で「悪いことが起こっている」という方向にわずかでも舵を切ったなら、その後の展開は「悪いことの原因探し」だけです。

それをしている間はずっと、愛から離れて行動しています。

どんなに努力しようが相手を思っていようが、です。

愛と反対の状態にありながら、自分は愛でいよう、愛でいなければと思っているのは葛藤以外のなんでしょう。

そこに平安はありません。

ゆえに愛に戻れません。

 

そして困ったことに、そうしている間はゴールがなんなのかわかっていません。

こどもがある日突然学校に行かなくなった時と同じように、ある日突然学校に行くようになる。

これがゴールでしょうか?

そしてそうなったのは、私があれこれ相手を思って努力したからでしょうか。

その成果としてこどもは学校に行くようになるのでしょうか。

 

これに違和感を感じていただけると嬉しいです。

これは、まるで罪と罰の法則です。

こどもが学校に行かないのは自分への罰で、学校に行くのは成果、ご褒美。

愛の法則とは真逆です。

 

奇跡講座における違った見方というのは、これを愛の中で見るなら何が起こっているのでしょう、という「実相」を見ることです。

 

それは、起こっていることをわきにどけることから始めます。

「相手がこう」「あの人がこう」「学校がこう」というすべてです。

なぜならそこにはすでに自分の判断が投影されてしまっていて、真実は見えていないからです。

そして自分の心の中で、愛から外れて恐れのスイッチが押され、悪の認定をしたところまで戻ってあげます。

 

私たちはそれを、自我の知覚によって瞬時に「悪いことが起こった」「敵が来た」「だから防衛しよう」と無意識的に判断します。(こういう判断をやるのが潜在意識です)

ですからまず、その判断を手放す必要があります。

聖霊(心の中に実在する神の働き・超意識)にその自我の判断を赦す(取り消す)ようお願いをします。

 

自我は何を恐れ、何をしようとしていたのだろう、と、聖霊の祭壇の前で問いかけてみます。

 

それはなんであれ、「自我の計画を遂行し、邪魔者を排する」ことが目的であったはずです。

子供を変えることを目的としないつもりでも、自我の判断の目的自体がそうだからです。

 

ここまでわかれば、それに対して「違う見方をさせてください」と祈ることは難しくないはずです。

 

ここまで順を追って心の中を理解しながら進むことができれば、その後のことはまさに奇跡となります。

 

お母さんは、自分に起こった問題(災難)という認識から離れることができ、その問題の根は自分の罪にある、というところから自由だからです。

 

そうすると、それはこども(という名の神の子でありきょうだいである者)が、愛に戻る道すがらに分かち合ってくれている、すべての人の課題と見なすことができます。

そうなったとき、それはすでに最良の答えが与えられている神への道そのものだということがわかります。

それが分かった時点で、分かち合う喜びと、そこへの導きを与えてくれる神と神の被造物への感謝のみが残されます。

 

これは正解を得ることに意味があるのではなく、誰もが本当に心の中でそうだという体験をすることに価値があります。

 

それを心の中で体験することが、自我を本当に離れて愛に戻る最も近道、もしくは唯一の道となるのだと思います。

 

「心を変える」「自分と向き合う」「相手を変えるのではなく自分を変える」などという言葉の意味はこういうことです。

決して、葛藤しているきょうだいをそのままにしておくことではありません。

私たちの心はひとつなのですから、そんなことは不可能です。

私たちは自分の心を変えることができるのと同じように、きょうだいの心を変えることができます。

そして、変えるというのは実は「戻る」ことです。

愛に、真実に、神のもとに。

戻るには、赦しが必要です。

赦さないまま変わることはあり得ません。

赦さないまま変わろうとすることは、より防御力の強い自我に置き換えることに他なりません。

そして赦す機能は、自我ではなく真の自己、つまり内在する神の働きの中に在ります。

赦しが進むと、やがては自分という隔たりが弱まり、大いなるひとつの内に安らぐその一部という認識に変わります。

その時、私は神の創造したままの神聖な自分である、という認識を取り戻すのです。

 

自分の真の目的がそれだと選んだ人は、起こることのすべてはただその目的のために与えられた最も適したレッスンだと知り、それを楽しむことができます。

その時世界に敵はおらず、ただ仲間がいろいろな役割を演じてくれているのだとわかります。

そこに攻撃、防衛は存在することはできません。

その時、そこには愛があり、自分は、すべては愛だけなのだとわかります。

 

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]

◎次回オンライン瞑想会は、2月18日㈰午前10時からです。

◎個人セッション、意識の仕組みを学ぶ講座、ヒーリングなど対面、遠隔、オンラインに対応しています。

 

感謝とともに

AZU拝


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