自分の内側は愛で満ちている。だからすべてのきょうだいたちもそうだ。
その真実は何物にも代えがたく私を幸せにする。
それでもこの世の煩雑でお粗末な形態は私をしばしばうんざりさせる。
そんな相反する矛盾した状態のまま、平安であることは不可能だ。
もし真理を知らなければ、私は私を裁いただろう。
そして、世界の隅々までを愛せる自分になることを自分に課しただろう。
それができない自分は未熟で欠落し無力で、その上傲慢で嘘を隠して生きる偽善者だと見なしただろう。
自分の力で考え、自分で決断を下すなら。
恐らくこんなふうに心の底に葛藤を抱えている人は私だけではないと思う。
少なくとも私はセッションを通してそういう人びと、つまり仲間と直に出会った。
目先の問題をどれだけ解決しても、人が生きることの根底に潜む矛盾と欺瞞は片付くことはない。
どれだけの善行を積んでも内側にある罪の意識は消えはしない。
全き善のなかでしか、私たちは平安を得られない。
しかしこの世とこの世を作り出した私たちには必然的な悪が抱き合わせに存在する。
それをうまく無視して、欲望を満たすことを喜びとして生きられる人のためにこの世はあると思う。
私はこの世に向いてない。
この世も、この肉体も、自分の住処だとはとても思えない。
かろうじて間借りさせてはもらっているものの、安住も永住も心からは望めない。
この世向きでない自分にとって、真理は救いでしかなかった。
神はこの世を創らなかった。
神が創らないものは存在しない。
神が認知しないものを私が愛するだなんて、不可能に決まっている。
神が感知しないものを私が愛さなければという考えこそが矛盾だ。
無いものを愛することはできない。
この世に救いはあるのか。
神は私たちの心を創ったのだ。
心の通うところだけに神がいる。
心の通わないところに神はいない。
神のいないところは存在していない。
私には心がある。
ゆえにすべてのきょうだいにそれがある。
過去から見続けてきた存在しない夢を取り消す。
なんてすてきな役割だろう。
それがこの借りの世で与えられた私の住まい。
私の疑い深さも、弱さも、怖がりなところも、嘘が嫌いで嫌いなものを見逃せずに見つけてしまうつまらない性質も、すべてはこの役割のために持ち合わせていた。
そしてその役割を引き受けたことで、私は完全さと強さを内側にみつけだした。
この世はなんて不条理なのだ。
そして真実はなんて偉大なのだ。
この不条理に耐え続けるのはもうやめよう。
不条理を受け入れることは神の子には向いていない。
それではなく完全性を受け入れるのだ。
完全性を選ぶなら、それに見合わないすべてを聖性が取り消してくれる。
完全性を選ぶなら、それは既に与えられている。
完全性を選ぶなら、あらゆる不条理との戦いが終わる。
すべてのきょうだいとともに完全性を受け入れる。
救いはそこにある。
この狂った世界への救いは。