AZU WORLD

心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

カオスの森を抜けて

自分を変えたい、変えざるを得ないというタイミングは、生きていれば自ずとやって来る。しかしそういう意味では、環境や状況を変えることが容易な人生(時代)にはチャンスが減るのかもしれない。まったくもって幸不幸は自分の尺度で判断することはできないものだと思う。

辛くもチャンスに恵まれた場合、進んでいけば必ず行き当たるのは『潜在意識』という森だ。それまで認識できるものがすべてだと信じて生きてきて、そこに生きづらさと行き詰まりを感じて生きてきた人にとって、それは謎解きの第一歩となる。

私たちは理性の指し示すようにならないから苦しむのであり、理性の前に立ちはだかる分厚い障壁が潜在意識だったことを知る。

しかしここで次の段階がやって来る。

その肝心の理性は、潜在意識の記憶を元に組み立てられた判断基準で成り立っている。

もし私たちが肉体という存在ならば、ここで物語は詰んでいる。肉体に属する意識は、顕在意識と潜在意識のいずれかしかないからだ。

つまり、私たちは体験によって少しずつ学び、ひいては他者よりも優れたものになり、生き残っていく。その狭間に「楽しむ」という高い知性を得たものだけに許される特権を体験していく。この世界でやっていくことはせいぜいそれくらいだということだ。

このことに人はいい加減気づいている。そして他者よりも優位でいる間は束の間希望を抱き、どうやってもこの劣勢を覆すのが困難だと感じれば絶望する。絶望に病名を付けて、あたかも治療薬があるかのようにこの世は見せかけ、何かしらの名前を与えて役割を果たすことを私たちに求めてくる。

頭の良い人や優しくてまじめな人が病むと称して、やり過ごすためのツールを開発し与え続けるこの世界。

次世代のためと称して決まりを整え、整えられた中でマヒしてすり減っていく子供たち。

それは今に始まったことではない。私が子供の時から充分にそうだった。私はそのようにして育った。

ただ幸運だったのは、私が病気の親きょうだいの中で育ったことだ。傷ついた母に育てられたことだ。そうだったから、私はこの世界に疑問を持つことが叶った。

矛盾の綻びから目をそらさずに見つめ、その向こうを求めることができた。

潜在意識の森はカオスである。そこに救いを求める人がこの世にはたくさんいる。宗教に救いを求める人がたくさんいるように。科学に救いを求める人がたくさんいるように。経済に救いを求める人がたくさんいるように。権力に救いを求める人がたくさんいるように。心を閉じることに救いを求める人がたくさんいるように。

そして自分が救いを求めるもの以外に救いを求める人をさげすむ人がたくさんいる。

この世界を少しでもましなものにするために人は奔走する。それが美しく見えることもある。でも少しましになったことで、本質を見失うということもある。

この世は自我が作った。だからこの世に愛はない。愛を回復させる道は、私たちが私というシステムを理解することにしかありえない。

私たちが愛という自己の本質に戻ること以外に救いはない。

そしてそのことを受け入れるには、私たちが抱いている幻想が幻想であると認めなければならない。

当初潜在意識の受け皿であるかのような薄っぺらな顕在意識は、潜在意識の猛威を退けたとき、愛という本質とつながり真の理性となる。

そうなったとき、この世界の不条理や疑問や神秘はすべて消える。

ひとつも隠されたものはなく、ただ明らかな正しさがそこにある。

神秘のベールに隠されたかに見えていたものは単にカオスの森であり、神聖さとはひとつの不思議もない全一さだとわかる。

この世の謎を解いてこの世を良きものとしようと奔走してきた先人たちが、この世の善を支えてきた。でも彼らが痛烈に知ったのは己の無力さだっただろうと思う。カオスの森の中に光をもたらそうとしてきた英雄たち。

また戦うのをやめて、カオスに安住しようとする者。

けれどどれでもない答えがある。

その答えを私たちの誰もが本当は持っている。

あまりに単純すぎて信じられないような答えを。

それはもはや、ただ選びさえすればここにある。

選ぼうという意欲だけが必要とされる。

それほどの権利を私たちは与えられている。

それだけを分かち合いたいと心から思う。

 

感謝とともに

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すべてが可能

皆さん こんにちは。

皆さんの内面への真摯な取り組みのお手伝いをさせていただけることに深い感謝をしています。

実際のところ お手伝いさせていただけばいただけるほど私の訓練が進みます。訓練が進むと私がお手伝いできる範疇が広がりまた皆さんの進みが優しく早くなるということを体験させていただいています。

世界を眺めれば解決が困難かに見えることがゴロゴロと転がっています。そして時に私たちは世界にゴロゴロ転がっている 私たちを打ちのめすような出来事に直面します。

私たちが本当に苦しいのは、直ちに逃げ出すべき時に逃げ出していることではなく なぜそれが起こったのか そして私はどうするべきなのかと考える時です。

そこには葛藤があり 迷いがあります。

そして 遡ってみれば何かが起きた時点で これは自分にとって不快なこと 危険なことだという判断があります。

聖霊は私たちに自分で判断するなと教えますが判断してはならないのは まさにここです。

なぜならその最初の判断は常に自我の知覚の反応であり、その根拠は体験と誤解に基づいているからです。簡単に言えば 赤ちゃんの時に身につけた『癖』が 判断基準になっているということです。

この最初の判断が訂正されない限り 私たちの成長はうんと 滞ります。最初の判断から続く一連の出来事をいくら 解釈し直し 思いやりの目で眺めたとしてもそれは良くて譲歩する形の容認でしかありません。譲歩する形の容認をする人は周囲から重宝がられ時には 感謝されることもあるかもしれませんがそれは常に犠牲を伴っています。

それは一見 愛に似ていて愛からかけ離れたものです。

私たちは幸せというものの定義をもっと明確にする必要があります。 どちらか一方だけが幸せであるということが真の意味で不可能だということを知るべきなのです。そしてそうであるなら幸せは形の中には存在できないということになります。形はすなわち 有限であり有限の幸せはそれはもはや不幸なのですから。

私がここで 真理と述べていることは本当に本当に単純なことです。それは常に全一であることです。 一元論、ノンデュアリティと言われていることは 単純にこのことです。

誰もがどこかで 神様ってどんな風に考えるんだろう、私たちの 疑問にどう答えるんだろう と想像したことがあるのではないでしょうか。

わずかでも矛盾があり不公平で曖昧さがあるならその神様に安心できるでしょうか。

本当の神様なら全ての疑問や問題を瞬時に解決しあらゆる 物事に対して 公平で そして全一であり続けるのではないでしょうか。

神は有限なものを創造しなかったのです。

形も 分離も 外の世界も。

そして ご自身と同じ無限で 全一 な存在を創造しました。 それが私たちの心です。

私たちが神の恩恵にあずかるには少なくともこの最小限の ルールをまずは受け入れてみる必要があります。

端的に言えば 心だけを見て 心だけを変えるのです。

やってみると 世界を複雑にし私たちを無力にし 卑小な物語を実在化させてきたのはただただこのルールを逸脱し有限なものに無限のルールを適用しようという誤った試みを続けてきたためだと分かります。

神が創造したものには神と同等の力があります。

私たちは当然ながら それを体験することができます。ただ 誤解を解きさえすれば。 ただ理解しさえすれば。 そして そもそも知っていたことを思い出しさえすれば。

感謝とともに

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すべての学びは真理に続く

皆さんこんにちは。

信州は紅葉に向けて色づき始めています。

先日は我が家で諸条件が整い、家族みんなで木曽路を楽しんできました。

木曽がめっちゃ好みです。

一口に木曽路といっても、塩尻市から木祖村、そして木曽郡と、その独特の息遣いは長く深く脈々と続きます。

連続する宿場と不動の木曽山脈。圧巻なのです。

 

さて、あっという間に9月も終盤です。

先月末に『ヒプノセラピストのための講座』の受講者さんが卒業されたと思ったら、今月はヒプノセラピーのセッションの機会に恵まれました。

〈お受けいただいたみなさま、本当にありがとうございます。〉
私からすると、まるでマネージャーかオーガナイザーがいてすべてを計画的に進めてくれているかのようです。その正体は聖霊で間違いないと思っていますが。

そして、セッションの内容がまた、非常にパワーアップしているのを目の当たりにして驚いています。

神の道具であることを選んだ私が、神から与えられた道具を使ってきょうだいと神の目的のために行わせていただいているセッションとはこういうものか、と、納得せざるを得ません。(神神言ってすみません。でも本当にそうなんです。)

私自身の細部にまではびこっている恐れが、どんどん取り除かれていっている結果なのだと思います。

私自身は相変わらずのメニューでセッションや講座をさせていただいているのですが、そのすべては真理(と私が理解している仕組み)に基づいて行わせていただいています。

不思議なことに、ヒプノセラピーも瞑想もレイキヒーリングもカウンセリングも、すべてが真理のための道具として見事に機能します。

私たちの真の目的はひとつであり、その目的を誰かと共有した時、聖霊は最も密接に介在し、目的のために完璧に導く、というのは本当のことなのです。

私はたぶんこの人生をそのことを体験するために生かされてきたのだと今では思えます。それ以外にはなにもありません。

目的がひとつ、と言われると人はみな怯みます。

自分の前途に邪魔が入ったような感覚を覚えるからです。

でもそれらはすべて、目的のための道具ですから心配はいりません。

神は私たちから道具を取り上げたりはしません。

でも、道具を目的だと勘違いしている間は、私たちはまったく満足しないのです。安心もありません。

一瞬の達成感があり、一瞬で過ぎ去っていきます。

そしてまた自分に目隠しをしながら走り続けようと自分の尻を叩くのです。

自分の目的以外に目を瞑り、我慢のすべてを抱えて墓場まで行こうと決意して。

一元論(ヨガナンダさん、奇跡のコース)に出会う前は、真理を想起させる断片的な言葉が指針でした。

その中に今でも心に残り、それは確かに全一な真理に含まれていたと思われる言葉があります。

それは「人は人生でなにを学んだとしても、愛を学ばないならなにひとつ学んだことにはならないのです」です。

心に浮かんでは、本当にそういうことだなあ、と日々思います。そしてそれが本当のことだとわかって本当に良かった、と。

愛以外は幻想、つまり無です。

無を重ねても無です。

それでも少しずつは前進しているはず、と思いたいのが人情ですが、そう思うということは薄々その無意味さに気づいているということでは、と思います。

意味と価値のある、愛についての学びを人生の優先順位のトップに掲げること。

必要なのはただそれだけなんです。

それだけのことで、すべてはひっくり返り、苦痛は消え、不信は去り、今すぐにすべてが喜びに変わるのです。

本当ですよ。

私の一元論の教科書は「奇跡講座」です。

どなたでも本屋さんで普通に購入できる書籍ですのでご興味のある方は手に取られてください。

ただ、ひとりで読み解き実践するのが難しい本ですのでお手伝いさせていただくために講座を用意しいています。

ご用命いただければ嬉しいです。

感謝とともに

kokoro-iyasuwa.jimdosite.com


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