AZU WORLD

心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

この世に向いていない仲間たちへ

自分の内側は愛で満ちている。だからすべてのきょうだいたちもそうだ。

その真実は何物にも代えがたく私を幸せにする。

それでもこの世の煩雑でお粗末な形態は私をしばしばうんざりさせる。

そんな相反する矛盾した状態のまま、平安であることは不可能だ。

 

もし真理を知らなければ、私は私を裁いただろう。

そして、世界の隅々までを愛せる自分になることを自分に課しただろう。

それができない自分は未熟で欠落し無力で、その上傲慢で嘘を隠して生きる偽善者だと見なしただろう。

自分の力で考え、自分で決断を下すなら。

 

恐らくこんなふうに心の底に葛藤を抱えている人は私だけではないと思う。

少なくとも私はセッションを通してそういう人びと、つまり仲間と直に出会った。

 

目先の問題をどれだけ解決しても、人が生きることの根底に潜む矛盾と欺瞞は片付くことはない。

どれだけの善行を積んでも内側にある罪の意識は消えはしない。

 

全き善のなかでしか、私たちは平安を得られない。

しかしこの世とこの世を作り出した私たちには必然的な悪が抱き合わせに存在する。

 

それをうまく無視して、欲望を満たすことを喜びとして生きられる人のためにこの世はあると思う。

 

私はこの世に向いてない。

この世も、この肉体も、自分の住処だとはとても思えない。

かろうじて間借りさせてはもらっているものの、安住も永住も心からは望めない。

 

この世向きでない自分にとって、真理は救いでしかなかった。

 

神はこの世を創らなかった。

神が創らないものは存在しない。

 

神が認知しないものを私が愛するだなんて、不可能に決まっている。

神が感知しないものを私が愛さなければという考えこそが矛盾だ。

無いものを愛することはできない。

 

この世に救いはあるのか。

 

神は私たちの心を創ったのだ。

心の通うところだけに神がいる。

心の通わないところに神はいない。

神のいないところは存在していない。

 

私には心がある。

ゆえにすべてのきょうだいにそれがある。

 

過去から見続けてきた存在しない夢を取り消す。

なんてすてきな役割だろう。

それがこの借りの世で与えられた私の住まい。

 

私の疑い深さも、弱さも、怖がりなところも、嘘が嫌いで嫌いなものを見逃せずに見つけてしまうつまらない性質も、すべてはこの役割のために持ち合わせていた。

 

そしてその役割を引き受けたことで、私は完全さと強さを内側にみつけだした。

 

この世はなんて不条理なのだ。

そして真実はなんて偉大なのだ。

 

この不条理に耐え続けるのはもうやめよう。

不条理を受け入れることは神の子には向いていない。

それではなく完全性を受け入れるのだ。

 

完全性を選ぶなら、それに見合わないすべてを聖性が取り消してくれる。

完全性を選ぶなら、それは既に与えられている。

完全性を選ぶなら、あらゆる不条理との戦いが終わる。

 

すべてのきょうだいとともに完全性を受け入れる。

救いはそこにある。

この狂った世界への救いは。

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確実な一歩をかみ砕く

みなさん、こんにちは。今日は朝からしんしんと雪が降っています。長野県岡谷市からお送りしています。

ふわっと前回記事を受けて書きます。

もし読んでいただいてご自身と照らしていただけていたら嬉しいのですが。

 

内面に一歩踏み出したらもれなく攻撃に出会う、と前回書きました。

恐らく「そんなことない」「自分は違う」と感じられた方が多いのではと思います。

「別に怒ってないし、これが普通」「ただうんざりして疲れてるだけ」「諦めが強くて怒れない」。

もしくは「だって、これに対して防衛しなかったらどうなるの」「これには怒らなくちゃだめでしょ」というのもあるかもしれません。

この世ではそういう細かい違いに意味があると見なされます。

自分独自の、その感じているものを見つけ出してそれに個別具体的に対処することが必要と思われています。

でも本当に幸せを望むなら、それは得策ではありません。

 

ここですかさず「感情には二つしかなく愛か恐れかのどちらかである」というルールを適用します。

そうすると「別に怒ってないけど」「私のはそれとはちょっと違うけど」という但し書きは全部いらなくなります。僅かでももやっとしたり微かに動揺するすべては愛ではなく恐れから発した反応だからです。

 

進むにつれわかると思いますが、そういうちょっとした但し書きは全部「自我が自我の有用性を取っておこうとするため」に自我がやっていることです。

 

私たちの感情に二つしかないということは、朗報です。

それは、こんなにも複雑で混沌としていてこれをほどいて整理して苦痛を癒していくのは途方もない道のりでやる前から既にうんざりしている分離した自我の私たちを最速で救おうとする大いなる神が、天から稲妻を放つように明確な事実だからです。

 

愛以外の感情は、全部いらないいものとして出しちゃっていいものです。

つまり取っておかなくて大丈夫なのです。

殆どの場合分別しなくていいし、出したはいいものの有害ごみだった、みたいな心配もいりません。

それらは幻想だからです。

幻想にはなんの効力も影響力もないからです。

 

私たちが注意しなくてはならないのは幻想の中身ではなく、それが攻撃なんだと気づくことです。

 

攻撃と防衛はひとつなので「自分は攻撃的ではないけどな」と思う人なら「防衛的」という観点で心を見ると気づきやすいと思います。

大事なのはどちらも同じく「恐れから出発している」という点です。

 

これをただじっとしていて心の中だけで見分けるというのはほぼ不可能なんです。

日常の時間での営みの中で、誰かとかかわる中でみつけるのがわかりやすいのです。

ただし、です。

私たちは自分の内側の反応を無意識に行動の基準にしていますから、行動してそれで片付いていることはそのまま流してしまいますし、心にひっかかっても次々と別のことが起これば別の刺激で前のものは忘れてしまったり、ちょっと我慢しているうちにひっこんでしまったりします。

立ち止まって心に照らしてみないことには始まりません。

 

つまり「投影したものを見てフィルムを見直す」という工程が必要です。

そしてそのとき見直す基準を「自我の裁き」に任せるのではなく、真理という最もシンプルなルールに照らすと、取り組みの成果は信じられないくらい加速します。

千年分が一瞬にして、ということが本当に可能です。

 

愛以外の意味のないものの分類や解析に労力を注ぐのではなく、愛以外の意味の無いものをただただより分けるのです。

 

この世のやり方と真理のやり方の、ただこれだけの違いのようですが、一方は無、一方は完全性へと私たちを運ぶのです。

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最初の確実なステップ

みなさん、こんにちは。

 

内側に一歩を踏み出した時、私たちが最初に見るものは「攻撃」です。自分が攻撃と防衛しかしてこなかった、という事実です。

私たちの本質が完全で愛しかない、ということを認識するための最初のステップはそれです。

そこを飛ばすことはできません。

 

多くの人はそこを飛ばして「自分は愛でありそれ(だけ)を認識していたい」と望みます。

するとどうなるかというと、自分以外の人や自分をとりまく状況はすべて敵だと認識されます。

「自分は愛だけど、愛である自分の平和を乱すのは外敵だ」というわけです。

 

その見方をしている限り、私たちは自我から自由になることはできません。

 

更に相手を敵だと認識しておいてこれを赦すことは矛盾していています。

実際には不可能なことを捻じ曲げて赦したことにするのです。

「赦したはずなのに平安にならない」状態の裏には必ずこういった自己欺瞞が隠れています。

 

この道順は誰の心にもあり得る過ちです。

 

ではどの地点で修正すればいいでしょう。

それは一番最初の地点です。

自分が攻撃したんだ、という地点です。

「自分が」というと「私だけが悪いの?」という気持ちが出るかもしれません。

でもそうではありません。

この自我が作った世界はみんな同じなのです。

それに気づいた人から脱出を試みなければなりません。

そこを脱出するにはまず「自分がどこにいてなにをしているか」に気づかなければなりません。

 

実際のところ、この第一のステップを踏むだけで、人生はとても優しくなります。

攻撃していることを認め、それをやめる選択をするのです。

 

ただご存じの通り、実際に攻撃をやめるということは防衛の砦を失うことと等しく、自我にとってはそれこそが恐れとなります。

その砦に代わってくれるものが「真の自己」つまり「完全なる愛」ということになるのです。

 

ここでやっと、自己の本質が登場可能になります。

それまでは自我の防壁が陣取っているので出る幕がないのです。

 

「私の本質は完全なる愛なのよね」と思うなら、少なくとも自我の攻防を選びたくない、別の選択があるはずだ、という僅かな気づきが必要です。

 

そして次にはその本質の力はなにものにも劣ることがなく、最良で完全な解決をもたらすということを体験する段階があり(これが奇跡です)

 

更には、奇跡とは偶発的なものではなく確実で常に起こるものだという確信と信頼という段階が訪れます。

 

そしてそうなった時に初めて「私が完全なる愛なら誰もがきっとそうなはずだ」というアイデアが真実味を帯びてくるのです。

 

これはとても簡潔なステップですが、自分で自分が今どこで何をしているかに気づくことは慣れるまで容易ではありません。

時には熟練者でも道に迷います。

でも、他者(に見えている自分自身)は鏡になって、それを見せてくれます。

敵だと信じ切って攻防している間はそれは単に襲ってくる外敵にしか見えませんが、自分が本当の自分に戻りたいという選択をしたなら、彼らは外敵ではなく「一番近道で案内してくれる教師」となります。

 

これは「投影」という幻想の世界から抜け出す最も確実な道筋です。

 

攻撃されていると感じるならそれは「自分が自我を選んでいる」だけです。

そう認識できたなら、それではなく「自分の本質に仕事をさせる」選択をするだけです。

それには「自我と同一化している」状態から一歩退いて、完全なる真の自己に任せ従うのです。

 

それがいとも簡単に機能することもあれば、なかなか難しく感じることもあります。

なぜなら自我はなかなかしつこくくずるがしこく誘惑するからです。

知覚は恐れが真実だと訴え、恐れには攻防が最強の手段だとそそのかします。

 

でもそれは嘘です。

長く暗い夢は覚めた瞬間に終わります。

その時に思うのは「なぜ夢の中で、その夢を良くしようと格闘していたんだろう。ただ目を覚まさせてもらえば良かったのに」ということです。

 

この世であたかも確実で効き目があり誰の目にも受けがいい「方法」として提示されているものの殆どは「夢の中の格闘に勝つ方法」です。

それは意味がないばかりか悪夢を長引かせ、悪夢の中に仲間を引きずり込むものです。

悪夢を続けるか覚めるかは、どちらを選ぶか。ただその選択だけなのです。

 

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