AZU WORLD

心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

今ここで選ぶべきこと

毎日暑い日が続きますが、みなさんお元気ですか。

我が家では互いにマッサージしたり、ヒーリングしたり、はり灸されたりしながら無事過ごしています。

しかしながら、なんだかすっきりしない、なにかつっかえてるようなとき、体調や外的な要素が原因ではないんですよね、真理に照らすと。

外圧がかかるとそれまで見過ごせていたものが気になって来る。そこで私たちは外圧を取り除くことを反射的に選びますけれど、そうではなくただ一旦そこから退いて内面に向かうほうに舵を切ると圧倒的な前進につながります。一瞬で癒され完全さに満たされる、ということが本当に起こります。

癒しの旅を長く歩んできた方にとって、道のりはあまりに長いトンネルだったかもしれませんが、それは潜在意識を別の状態に変えようとしてきたからで、言い換えるとそれは「より良い自我」を求めてきたからなんです。

この衣でない別の衣を探す旅、みたいなものです。でも癒しに衣替えは関係なかったのです。

私たちに必要なのはただただ真実に向かうこと。

真実を見ようとすれば真実でないものは存在できずに消え去ってしまいます。

思うに私たちは、愛であろうとするより真実であろうとすることの方が進歩するようです。

愛に力がないという意味ではありません。愛は完全であり愛以上のものはありません。

しかしながら私たちはあまりに愛を勘違いしているために、愛を行使しようとしたとき、とんでもなく制限をかけて誤用してしまうのです。

ただ正直であろうとするとき、そこに含まれる過ちや誤解や恐れ、つまりは自我を丸ごと差し出します。

その時こそ神は愛以外のものを即座に取り消して、愛のために愛に向けて愛である私たちをお使いになる気がします。

私たちのあらゆる幻想を丸ごと使って、真実のもとへ引き戻してくださるのです。

だから私たちは自分の攻撃と防衛から退く必要があります。

私たちが無意識にやり続けている攻撃と防衛を意識し、そしてそのやり方をやめたいと望むことーつまり赦したいとさえ思えれば、あとは愛の法が心を統治し本来の私たちを思い出させてくれるのです。

愛とは私たちにとって唯一の真実です。

ですからどちらを選ぼうとひとつところへ向かいます。

ただし私たちは真実を知らないとは思えても、愛は知っていると思いがちです。

知らないからこそ無心に全力で求めることができる、というのがその心です。

感謝とともに

AZU拝

kokoro-iyasuwa.jimdosite.com

超意識ってどんなもの?

何かを成そうとするなら、まずなにかしらのセオリーを用いるのは普通のことだと思う。でもセオリーに従ったからと言って成功するとは限らない。

探究というのはそこから始まるように思う。

ダイエットをしてみる。カロリーを計算する。計算通り食べようとする。しかし計算通り進まない。計算上に現れない、自分の知らないなにかがそこに隠れているのだ。

かくして探究は始まり、人間の探究をすればいずれは潜在意識にたどり着く。30年前はそこまでに結構な時間を要したけれど今ならあっという間だ。

子供が不登校。いじめられている。いじめている。仕事で成功したい。お金がほしい。恋愛がうまくいかない。結婚できない。人間関係が苦痛。

潜在意識が関係しているというよりは、潜在意識はこの世のすべての事象の元になっている。宇宙ムービーのフィルムが潜在意識なのはもう、間違いない。

良いことをするにはただ良いことを選んでやればいいし、悪いことをなくすには悪いことをしなければいい。ただそれだけなのに、この世はそうはいかない。

その理由を、人は漠然と誰か他者の、或いは外側の状態のせいだと考える。

そして他人を変えることはできないから、自分が変わればいい、というあたりまでは常識になりつつあるのかもしれない。

潜在意識への取り組みというのはある意味セオリーに組み込まれているかもしれない。特に経営者とか、自営業とか、起業する人にとって。或いは選手や表現者トップランナーにとって。

子育て待ったなしのお母さんたちも、インナーチャイルドについて触れたことがない人の方が少ないのかもしれない。(沖縄にいたときはそう感じていました。)

更に、潜在意識の癒しとか浄化に疲れちゃったという声もよく伺う。要は同じテーマが繰り返されたり、進んでいる実感がなかったり、ゴールが明確ではないときにそうなる。

それで、私はもう癒しはいらなくなった、もう卒業した、と決めて別の解決を選ぶなどの舵を切る方もおられる。

でも、真の仕組みに基づいて取り組むなら、潜在意識へのアプローチは確実に変化をもたらすし、逆にそれ以外のことは一時的なもの、気休め程度だと言えると思う。

最近見かけるのは、潜在意識はもう古い。これからは超意識を使おう、というやつだ。

世の中で取りざたされて一番残念なのは、あれこれ間違った情報が検証されないまま偽物だった、価値がなかった、と烙印を押されてしまうことだ。

   ★   ★   ★

超意識って利用するものではありません。利用するって、誰が主体なんでしょう。

超意識は主体なんです。つまり本当の、真の自己のことであり、あなたそのものであり私なんです。

潜在意識は単に過去の、いわば記憶の集合体です。

その中に使えるものもあるし、もう用が済んだものもあります。

潜在意識とは作り出すものではなく、用が済んだものをお掃除するべき箇所です。

潜在意識を見る意味は、用が済んでいるのに気づかずにしまい込んでいるものを見つけるためです。

掘り起こしてみたらお宝がみつかって、掘れば掘るだけ宝の山が見つかるんじゃないか、と思えることがあります。確かにワクワクするんです。でもそれは目的ではないし、探求すべきなにかでもないんです。

私たちの目的は、真の自己を真の自己だと再認識することなんです。

超意識とは言ってみれば私たちが愛ってこんな、神とはこんな、と捉えているものに似ています。

でも、私たちが捉えているどんな愛よりも神よりも完璧で全一で公平です。

それは地上の不完全さや矛盾や分離に慣れ切った私たちからは到底想像できません。

でも、私たちには神の子だった記憶がそれぞれのうちにあり、その記憶とは、ひとつで完全だったという記憶です。ですからそれを思い出せばいいのです。

思い出す道のりの近道のために、神は私たちに奇跡という選択を与えました。先人たちは瞑想というツールを残してくれました。

私たちには神の想念の音波や電磁場の痕跡が残され、求める人にはアクセスが赦されています。

それは私たちに2000年を節約させてくれる、とあります。

私は本当にそうだろうと実感しています。

潜在意識を探究し始める入り口はほぼ100%、この世における成功が目的でしょう。しかし潜在意識の浄化が始まり癒されるなら、私たちの目的そのものが変容します。それは間違いなく起こるでしょう。私たちは癒されないなら恐れが目的です。癒されて初めて、愛は初めから今までここにあったとわかります。そして目的はそれしかなかったとわかります。

恐れが癒され、愛の国が戻ってきますように。

感謝とともに

AZU拝

癒しのお手伝いをしています。

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この世で唯一の治療法

みなさん、こんにちは。

五月も間もなく終わり。信州の景色はどんどん変わり、新緑から濃い緑に変わりつつあります。ハリエンジュ(ニセアカシア)の花が咲き乱れ、あちこちからあの甘く優しい香りが漂っていましたがこれも間もなく終わります。

信州に来てハリエンジュのお花の天ぷらを知ってしまいました。春先から山菜の天ぷら祭りが続き、違ういただき方ないかなと思い付きでお茶にしてみました。嬉しい効能ないかなーと調べてみたら、利尿作用とあり、まあ、コーヒーや緑茶くらいかなと思っていたら、想像を超えたかなりの効き目でした。ほのかに香り、ほのかに甘い、レッドクローバーにも似た香ばしい味もします。花びらに熱湯を注ぐと額が黄緑にぱーっと変わり、きれいな花が益々きれいになるのも嬉しいです。

それにしても信州岡谷市はまだまだ寒い日があります。さすがにもういいかと冬布団をしまってからまた毛布を取り出して使っています。治療院では朝は暖房を入れたり午後は冷房を入れたり忙しいです。

八ヶ岳は空が煙っていてかすんで遠くに見える日が多いです。ついこの前はくっきりした雪山がすぐそこに見えていたのに世界が違って見えて不思議です。

私たちは沖縄から引っ越してからまる三年となります。うちの庭の花桃の下でくるくる回っていたかわいい小学生も、あっという間に中学生。日々大切に、意識的に、正直に、生きたいなと思います。

今月は念願の、「ヒプノセラピストのための講座」を受けてくださったセラピストの皆さんとのミーティングができました。信州、関東、沖縄を結んで垣根を超えたコミュニケーションができて、想像を超えた実りがありました。

私もまもなく59歳になろうとしているんですが、最近、自分の軌跡を新しい今の視点から見直す機会が増えました。言い換えるなら、癒された自分として訂正された世界に出会う機会と言えます。

近年は、夫をはじめクライアントのみなさんのおかげで奇跡講座への理解が格段に進み、癒しの働きが厳密によく見えるようになりました。

この世的に考えると、許しには多少なりとも我慢と犠牲があります。許したことで多少の解放もありますが、どこかに不公平さが残ります。

子供の頃、きょうだいで衝突があると「お姉さんなんだからが譲りなさい。我慢しなさい」と度々周囲から言われてきました。お姉さんとして生まれる子はどこか、それを受け入れている部分があります。それはおそらく自分より更に小さき、か弱き、守るべき存在がいてくれることへの喜びを認識しているからです。愛を学ぶ下地としてその形を選んでいるのだと思います。ですがそんなお姉ちゃんにもどうしても譲れないことが、たまにはあるのです。そんな時、自分より大きな、強い、守ってくれる存在がお姉ちゃんにも必要です。でも実際にはそこに裁きがあり、軍配が自分に上がることはほぼありません。

我慢して譲ることでの許しは、私たちを少しずつ疲弊させ、諦めさせ、損なっていきます。大人になるころにはそれ以外の許しは思いつかなくなっています。

妹や弟たちはと言えば、たった二歳やそこいらしか違わない、なのに明らかに自分より大きな人がいつも自分の行く手の先を行き、時に道を塞ぎ、自由を奪われていると感じざるを得ないかもしれません。自分より明らかに強い者を許すなんて、非常に困難に思えることでしょう。

真理における赦しとは、これらとは全く異なります。でも「ゆるす」と聞いてとっさに思い浮かぶのは、忍耐や犠牲や、とてつもない困難、というイメージだと思うのです。結局のところ背伸びして、大人になったふりをして、自分が上に立ったつもりになって許す以外に道はないと思えるのです。

真理における赦しは即ち愛に戻る道です。ただし許しに犠牲があると信じているうちは、愛にも犠牲があると認識されます。愛に戻ると表現されるのは、私たちにはそもそも愛が備わっており愛こそが本質だだからです。でも、戻ったところにある本当の愛を、私たちはわかっていないのです。だから、赦したあとの世界は私たちにとっては結局未知なんです。

ですからゆるしは自分の力では絶対にできないことです。それは未知である愛そのものにしかできません。勘違いしがちなのは、愛は自分の本質なのだから、自分でそれをできると考えてしまうことです。自らの本質でありながらそれを知らないということを見落としてしまうのです。

未知で未体験のものと付き合うには、それが見えなくても感じられなくても、あると「見なし」、そしてそれを信頼するしかありません。それはこの世的に言えば、まず差し出す、まず受け入れる、自ら進んでそうすることに似ています。

実際に試みるとわかるのですが、それはことごとく邪魔されることです。あらゆる角度から恐れがやってきてはその選択は間違っていると訴えてきます。

だから、私たちが愛に戻るには、まずその恐れをわずかでも癒し、癒されたという体験が必要です。そしてそこには明確な、例外のない、確実な法則があるという手がかりと、それに従ってみようという意欲が必要です。

今私の周辺には夫をはじめ、それを選んだ仲間たちがいます。私のうちにかすかに見え隠れしていたわずかな光は今や私を満たし、共有され、それを喜びあえる魂の家族に守られています。

その光がどうか届けられますように。

そして分かち合うために、私がその道具として働けますように。

感謝とともに

AZU拝

kokoro-iyasuwa.jimdosite.com


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