奇跡、という言葉は一般に、秩序を超えた偶発的で喜ばしい出来事、のように使われるようだ。
けれど、内面の探求をしていると、どうもそうではないということに気づく。
私は、奇跡は神の秩序、つまり、愛の次元の厳密な秩序に基づいて起こるものだと思うようになった。
私は奇跡が好きだった。
奇跡をよく体験した。
今は奇跡の中で生きている。
私たちが愛という秩序にいないとき、それは偶発的な出来事に見える。
すべては必然などと言われるが、すべてとはなんだろう。
すべてというのは真実のことだ。
私たちの肉体意識は幻想世界にほぼどっぷりと浸かっている。
知覚の反応と、そこに差し出された選択肢を掴まされ、そこから選びながら、それを真実と認識して生きている。
真実は幻想世界には存在しない。
幻想世界はそもそも実在していない。
つまり幻想世界の偶発的な出来事を必然とは、必然的に呼ぶことはできない。
奇跡のみが必然だ。
・・・
A COURSE IN MIRACLES~奇跡のコースをもう一度始めた。
前回はまだ日本語訳の本が出ておらず、修道女の田中百合子さんが訳してくださったものをわけていただいた。
大内博さんがご苦労なさってようやく出版されたのを知っていて、買うならそれだと思っていたが、今回急に手にしたくなって探して吟味して入手したのは「奇跡講座」のほうだった。
しょっぱなから、ここに記されているワークの本質がどーんと意識に飛び込んできた。
要はすべて、洗脳なのだと思う。
洗脳について、さゆふらっとまうんどという人が動画で
「あなたは洗脳されています、というと、わるくちみたいになっちゃう。でも本当はあなたも私も、洗脳されているんです」と言っていたがその通りだと思う。
私たちは洗脳されている。
言わば肉体を持った瞬間から、私たちは肉体の知覚によって学習し始め、生きる術を身につける。その道すがら身につき刷り込まれた観念、世界のすべてが洗脳だ。
たとえば愛を学ぶ拠点として魂が選んだお母さんから、愛とごちゃまぜに受け取る全部が。
そこには大事な要素も多分に含まれ、そして当然ながら真実でないものも多分にある。
そこにはお母さんの体験からくる知恵や、同時に癖や習慣や思い込みという想念がくっついていて、もれなく私たちの潜在意識に土台として刷り込まれる。
これがインナーチャイルドの正体であり、見直されない限りそれは信念として親から子へと受け継がれる。
もちろんおとなになる過程では社会的刷り込みがなされる。
大きな意味では、私たちが人間である、という概念すら思い込みだと言える。
それらは真実ではない。
奇跡のコースはもっとも深く、あらゆるレベルで洗脳を解くワークだと言える。
世の中には、この世の中に適応するため、偽りの自己を助長するためのスキルがあふれている。
それらはあなたに言う。あなたはもっと、素晴らしい人間になれる、と。
奇跡のコースは言う。
この世界を神は創らなかった。よって、世界はない、と。
ではあなたは誰なのでしょう、と。
洗脳から覚めると、私たちはそれを思い出す。
そして、本当の呼吸を始め、本当のいのちを生き始める。
本当のいのちは、私たちに永遠のものを与え、育む。
愛、真実、平和、豊かさ、喜び。
自分が変わるというのは、相手におもね、譲ることでも、それをやめて自己主張するのでもない。永遠のものを育む自己として本当のいのちとして生き始めることだ。
それを始めると、相手というものがなくなる。おもねる相手は神だけでいい。
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