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RUACH 心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

まもなく59年、生きちゃいました。

みなさん、お元気ですか?

8月に入りました。私ごとですが、あと2日で59歳になります。

よくがんばって生きてきました。生きるって大変なことではないですか?

昔はからだとこころの区別がよくわかっておらず、生きるというのは肉体が死なないことだと思っていました。

より良く生きることは、死なない間に良いことをするとか、価値のあることをするだとか、みんなに喜ばれるとか愛されるとか、そういうことを体験することだと思っていました。

つまり、生きるというのは肉体が体験することだと思っていたのです。

そして辛いこと、苦しいことも、それを乗り越えなければ良い体験ができないからという感じで必死に受け止めていたんだと思います。

真理はまったく違うことを私に教えました。

「死は存在していない」。

これって宗教のかかげるスローガンっぽくて全然信じられませんでした。

キリスト教では「永遠の命を信じるなら救われる」みたいな感じ。

仏教なら「なぜならすべての命は輪廻転生を繰り返すから」みたいな。

そのどちらを言われても「それがどうした。今の私と何の関係があるんだ」と、きっぱり思っていました。

そんなこと言ったところで死んだら終わりだし、生きるのがこんなに恐ろしいものなら絶対に生まれ変わりたくないと思っていました。永遠とか死後の世界もお断りでした。思うように生きられないなら早く終わりにしたい、というのがとにかく一番の希望だったのです。

その一方で、生きるのが辛いのは自分の心が傷つくからだということは体験的に実感していましたし、心が傷ついて辛いのは愛が欠如しているからだということも納得でした。

結局のところ、この世界に愛が不足しているのだから、この世界に愛が満ちるように変わればいい。この世界に愛が満ちるには人の心に愛が満ちればいい。そしてすべての人の心に愛が満ちるようになるには、自分の心に愛が満ちればいい。

そういうことですよね。

自分は共感力が強い敏感さんだったので、常に他者に愛を感じているし愛を求めているほうだと認識していましたが、それなのに(いやそうだからこそ)ことごとく傷つく(かに見える)のはどういうことなんだろう、という矛盾はすぐにやってきました。

このブログにも何度も出てくる「傷つくならばそれは愛ではない」という言葉は究極的には正しかったのです。でも愛であろうとするなら人(自我)は傷つくし、自我が傷つかないようにしようとすれば、愛を抹殺するしかないのです。どちらかしかありません。

愛はそんな言葉では表せないくらい完璧で無限で強大なものでした。

愛が唯一の実在だということと、死は存在しないということは一つの真理を表しています。

これは「神は心しか創らなかった」という絶対ルールを忘れていると混乱して理解できません。

永遠の命というのは、信じるから救うわけでも生まれ変わるから終わらないのでもありません。

ただ本当に、なににも損なわれず脅かされず、完全で無限で慈愛に満ちて、そして永遠に拡大する意識が私たちだということなんです。(ちなみに輪廻転生は幻想に属しています。永遠不変のものだけが実在です。)

私たち人類が目指しているもの、目的としているのはなんでしょうか。

あまりに理想から遠すぎるがゆえに、私たちはそれを見ずにただ進むことしか考えていないのではと思われますが、突き詰めるなら「いつかこの肉体や肉体にまつわる記憶をすべて持ったまま、完全な存在になれますように」ということなのではないでしょうか。宗教も科学も権力者も昨今のスピリチュアルも、観察しているとなるほどそれを目指しているように見えます。

インターステラーっていう映画を見ていて、肉体を持ったまま宇宙船のような乗り物に乗って時間と次元を超えようとする、みたいな場面を見て「あ、これ絶対に不可能なことなんだ」と、直覚的に理解した経験があるんですけど「人類はいつかそれが可能になると信じているんだな」ということも強く感じました。こういうことを奇跡講座では次元の混同と呼んでいるんだな、と。

どうでもいいというか、生活には直結していないようなことですけど、人類が自我を神に見立て、自我を神にしようとしているとはこういうことで、それが実は人類全体の中で無意識的に目的として皆がそちらに向かって日々毎瞬邁進しているんだと思うんですよね。

つまり私たちは個として肉体意識を実在化したうえでの完璧さを目指すことが良しとされている世界で生きている。個の不死を。いつか誰かが抜きんでてそれを達成するのだから、自分を磨いて周囲に勝ち自分に負けない強さを身に着けるのだ、ということです。

そこから戦線離脱してしまった人はそんな自分に折り合いつけて、多様性を個別化した名前を張り付けた檻に自分や誰かを押し込めて、生きる。

認めはしたものの生きづらいなあ。なんか楽しみ見つけてやっていこう。そのためのコンテンツはそこそこ与えられているんだし。そんな道が選べることを平和と私たちは呼んでいる。だから平和がそれほどありがたいとは感じられない。

この世界の目的って、59年生きてきてもそんなところにしか見えません。というか、59年生きてきて、とても鮮明にそう見えるようになりました。

そして、そんな世界は全部幻想なんだ、と。

そして近年、私はこういう幻想の代わりに、実相を目の当たりにしています。

実相というのは、神が創った私、つまりは心であり光である私が、その光を当て、その心で世界を「見直す」と見えるものです。

これはすべての人に与えられた真実であり真実の世界です。今ここにあり、私たちが見ている幻想の薄いベールの後ろにあります。

それを実際に見てそれを実際に生きるには、それを意識して選ぶ必要があります。

この選択は、生まれて間もなく身に着けてしまった癖や思い込みを変えることにに似ていますが、それよりもうんとやさしいものです。

なぜなら、新しく良い習慣を身に着けるのは自分の知らない新しい自分になることですが、真の自己とはそもそもの自分自身であり、ただそれに戻ることだからです。

そして本当はもう既に、誰もがその「帰り道」の途上にあるのです。

真実は人に優しく真理は世界に優しいのです。

この真実を意図的に、意識的に選ぶこと。それはあなたの魂を最も喜ばせます。

「魂の進みたいほうに進めますように」

なにもわからず苦しみの中にあって祈った私の祈りは、今このように解き明かされています。

みなさんにもそんな喜びがありますように。

感謝とともに

AZU拝

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