皆さんこんにちは。
信州は紅葉に向けて色づき始めています。
先日は我が家で諸条件が整い、家族みんなで木曽路を楽しんできました。
木曽がめっちゃ好みです。
一口に木曽路といっても、塩尻市から木祖村、そして木曽郡と、その独特の息遣いは長く深く脈々と続きます。
連続する宿場と不動の木曽山脈。圧巻なのです。
さて、あっという間に9月も終盤です。
先月末に『ヒプノセラピストのための講座』の受講者さんが卒業されたと思ったら、今月はヒプノセラピーのセッションの機会に恵まれました。
〈お受けいただいたみなさま、本当にありがとうございます。〉
私からすると、まるでマネージャーかオーガナイザーがいてすべてを計画的に進めてくれているかのようです。その正体は聖霊で間違いないと思っていますが。
そして、セッションの内容がまた、非常にパワーアップしているのを目の当たりにして驚いています。
神の道具であることを選んだ私が、神から与えられた道具を使ってきょうだいと神の目的のために行わせていただいているセッションとはこういうものか、と、納得せざるを得ません。(神神言ってすみません。でも本当にそうなんです。)
私自身の細部にまではびこっている恐れが、どんどん取り除かれていっている結果なのだと思います。
私自身は相変わらずのメニューでセッションや講座をさせていただいているのですが、そのすべては真理(と私が理解している仕組み)に基づいて行わせていただいています。
不思議なことに、ヒプノセラピーも瞑想もレイキヒーリングもカウンセリングも、すべてが真理のための道具として見事に機能します。
私たちの真の目的はひとつであり、その目的を誰かと共有した時、聖霊は最も密接に介在し、目的のために完璧に導く、というのは本当のことなのです。
私はたぶんこの人生をそのことを体験するために生かされてきたのだと今では思えます。それ以外にはなにもありません。
目的がひとつ、と言われると人はみな怯みます。
自分の前途に邪魔が入ったような感覚を覚えるからです。
でもそれらはすべて、目的のための道具ですから心配はいりません。
神は私たちから道具を取り上げたりはしません。
でも、道具を目的だと勘違いしている間は、私たちはまったく満足しないのです。安心もありません。
一瞬の達成感があり、一瞬で過ぎ去っていきます。
そしてまた自分に目隠しをしながら走り続けようと自分の尻を叩くのです。
自分の目的以外に目を瞑り、我慢のすべてを抱えて墓場まで行こうと決意して。
一元論(ヨガナンダさん、奇跡のコース)に出会う前は、真理を想起させる断片的な言葉が指針でした。
その中に今でも心に残り、それは確かに全一な真理に含まれていたと思われる言葉があります。
それは「人は人生でなにを学んだとしても、愛を学ばないならなにひとつ学んだことにはならないのです」です。
心に浮かんでは、本当にそういうことだなあ、と日々思います。そしてそれが本当のことだとわかって本当に良かった、と。
愛以外は幻想、つまり無です。
無を重ねても無です。
それでも少しずつは前進しているはず、と思いたいのが人情ですが、そう思うということは薄々その無意味さに気づいているということでは、と思います。
意味と価値のある、愛についての学びを人生の優先順位のトップに掲げること。
必要なのはただそれだけなんです。
それだけのことで、すべてはひっくり返り、苦痛は消え、不信は去り、今すぐにすべてが喜びに変わるのです。
本当ですよ。
私の一元論の教科書は「奇跡講座」です。
どなたでも本屋さんで普通に購入できる書籍ですのでご興味のある方は手に取られてください。
ただ、ひとりで読み解き実践するのが難しい本ですのでお手伝いさせていただくために講座を用意しいています。
ご用命いただければ嬉しいです。
感謝とともに
