世界を変える権限をすべての人が等しく持っているとしたら、あなたはどのように行使するでしょうか。
世界は確かに私たちの想念の投影の総和によって立ち上がっています。
その世界では、社会的な権力や力の強さ、身体の能力、持ち物の量などという「差異」によってその権限に強弱があると考えられています。
それらをけん制しあって、或いは利用しあって、世界は動いていると信じられています。
今のところそれがこの世界です。
でもそれは、それが信じられ共有されている間だけです。
それよりも、等しくすべての人が持っている権限のほうを自然にみんなが受け入れるようになれば世界はそのようになります。
「自然に受け入れるようになる」という表現はちょっとぬるい感じがしますが、自然に受け入れるようになるにはどうなればいいかというと、実際にその権限を行使し体験することしかありません。
より信頼できる確実なものを体験してみて人は古い信念を本当に手放すことができます。
「きっとそうなんだろうな~。それが本当なんだろうな~。」
という認識は架空です。
「私はそれを知っている」ということにはなりません。
知っているというのは、本当にそうだ、とわかることです。
頭のどこかではそれはきっとそうなんだろうと思いながら、実際は違う反応をし、違うことを選び、違う自分を生きている、というのは、それはもう、完全に違うことを信じている状態と言えます。
そして私たちは信じているものを投影し、またその結果を見てそのことを更に信じ込んでいきます。
頭のどこかにある本当のこととまったく関係のない世界で生きていることになります。
頭のどこかにある本当のことと、自分のやっていることがあまりに分離すると葛藤となりそれが苦しみになります。
その苦しみから自由になるには、本当のことを選ぶしかなくなります。
本当のこと、つまり完全なる愛は、葛藤を含みません。
愛と、この世の矛盾の狭間で私たちは罪悪感を抱いています。
罪悪感から逃れるため、なるべく鈍く眠っておこうとしています。
苦しんでいないふりをします。
この世界は紛れもなく、個人差という陰影が彩った絵です。
それが美しい、それでいい、と、思いたい人がたくさんいます。
自然は美しいと人は言います。
自然の中の生き物は葛藤しないから美しいと人は言います。
自分を自然に含めてそう言う人も、含めないでそう言う人もます。
自然はどこをどう切り取ってもサバイバルです。
自然に葛藤がないのは、ただ生存の目的に生きるからです。
生きるために他の命を奪うことに罪の意識がないからです。
人間も、肉体においての目的はまったく同じです。
でも人間にはただ生きることには罪の意識があります。
それは人間には愛を認識し行使する力があるからではありませんか。
愛と相反するこの世の肉体という在り方に疑問があるからではありませんか。
愛は分かち合い、肉体は奪い合うという、正反対のことを自分の中に統合することに迷いがあるからではありませんか。
人間は長い間、その罪の意識に対する答えを神に求めてきました。
罪と罰の集大成のような神像を自ら作り上げ、罪の理由を神に求めてきました。
そして甘んじて罰を受けるという犠牲によってこの苦しみの溝を少しでも埋めようとしてきたのだと思います。
けだものである人間に自然の姿をした神が罰を与える。
その罰を恐れて人間は自らを監視役にしたて、監視役の顔色をうかがいながら生きる。
監視役は自分の罪悪感であり、それを投影した世間です。
自分と自分の投影である世間が作った善悪に照らして自分を裁き、世界を裁き続けてきたのです。
それが私たちの知る神と世界です。
これは自我が作った神とその神が作った世界です。
自分の周辺のごたごたが落ち着いたところで、
自己肯定感や評価が上がった所で、
承認欲求が満たされたところで、
自己表現がうまくなったところで、
なにが変わるのでしょうか。
私たちが自分自身への決定的な誤解を解き、深く眠らせておいた欺瞞から目覚め、自らをその地獄から救いださないでいて、いったい世界のなにを変えようというのでしょうか。
AZUさんと同じこと言っている人を見たことがないんですよね。
AZUさんと同じことをだいたいみんな言ってますよね。
両方の言葉をいただきます。
愛、神を世間のだいたいの感じで捉えているならだいたいみんな同じなのではないでしょうか。
でも、私の中では明確に違います。
漠然と肉体感覚で捉えているものを愛とも神とも私は思いません。
肉体の中にはそれは無いし、肉体はそれを知りません。
同時に肉体感覚も、です。
体感と体験は違っています。
体験とは意識されることです。
そういう前提のもとにお伝えしています。
お伝えしたことは、土台となる仕組みを捉えていただくと枝葉まで鮮明に捉えていただけると思います。
しかしながらすべてはわずかな意欲から始まります。
その意欲によって、頭で知っていることをなぞるのではなく、実際手に取る一つの真実から始まります。その一つを自分に適用することから。
神は在りてある。
在るもの以外はない。
罪はその価値を持たず、価値のないものを神は作らなかった。
永遠の平安という無限の安全を神は命とし、私たちに与えた。
それを体験することを私は選びます。
その宣言が、世界を変える権限を行使することになります。