真理において死はない。あるのは永遠無限の命だけです。
それは私たちの知っているこの世界とはかけ離れ過ぎていますから、遠い別の世界のこととしてうっすら知っていることとするか、或いは科学が未発達だった、今よりも迷信が横行していた時代に信じられていた劣った考え方と位置付けるか、或いは弱い人間に必要とされる生きる知恵の一種として、最後の手段としてなるべく近寄りたくないエリアに置いておくのか。
とにかく自分ごととしてそれを取り上げることを後回しにされるもののように思います。
私は子供の頃、生きるには恐怖心がつきまとうと感じていたので、死は恐怖の終わりであってほしいと願っていました。ですから死後の世界があると言われると、この恐怖の知覚がまだ続くのは絶対にいやだというふうに思い、無を望みました。
死んでしまったらすべてが終わってしまうから死にたくない、という思いを持つ人はたぶん、生きることで得るものがあり、死ぬと失うと思っているのだろうと思います。
真理はそのどれも、幻想と言います。
というのはどちらも肉体(自我)の知覚がそのように信じ込ませているだけで、その知覚は実在ではないというのです。
確かに、今自分になにがあると信じるかによって、同じ死も違う意味に見えます。設定が違えば事実も違ってしまうのがこの世です。
この2年は、病気と死が社会の壁となり、様々な行き止まりを普段よりクリアに見せてくれました。
恐れから普段以上に裁き、自分の知覚を盾に、攻撃と防衛がより鮮明に展開する世相となったように思います。
この世での究極の罰則は死です。
その死につながるものはすべて暴力と見なされます。
しかし、永遠の命に対する攻撃や防御は見過ごされています。
イメージしていただきたいのです。これは日本だけでのお話です。
20000人を365日で割り、更に24時間で割ると、一時間に自殺で亡くなる人の数が出ます。延々と30分に1人以上が自ら亡くなっています。
多い時にはその1.5倍の速度で亡くなっています。
多くのこどもたちもこの数に含まれています。
数字のお話がしたいのではもちろんありません。
思いについて話したいのです。
その選択にいたるまでのそれぞれの思いの時間を、思いたいのです。
それは、それぞれの方が「自分になにがあるか(ないか)」という思いによって選んだ答えです。
なにを持ち、なにが足りないか。
なにが優れ、なにが劣るのか。
人が自分を裁く、人を判断する、最大の焦点がこれです。
私たちの時間は共有されています。
私たちはすでに、生きる時間の質や目的、意味をはっきりと認識すべき地点に立たされているような気がします。
そしてその問いに対して決然とした答えを、一つの曖昧さも矛盾も残さずに示唆してくれる導きを、この時間の中に共有できたらと思うのです。
真理にはそれがあります。
誰もが答えを持たずにさ迷い、自分を自分で裁き、果てに罰則を受けて終わるというようなこの世界を変えたくないですか。
一度この世界の仕組みが見えてくると、すべてはただ学びのための機会だとわかります。それを攻撃と防衛でやり過ごすのか、永遠無限の命の中に自らを蘇らせるのか。
ただその選択だけが私たちに問われています。
それはこの世界のやり方ではなく、真実を見たい、という選択だけです。