私自身が奇跡を自分のものとして身近に引き寄せた時、仲間たちもまた、それに引き寄せられる。
離れたところに置いておけば、仲間たちも離れている。
奇跡を選ぶか、自我のやり方を続けるか。
この二択である。
私は長いこと、神の道具になることの訓練を受けたと思う。
神の道具になることは、奇跡を受け入れることだ。
奇跡を受け取る権限はすべての人が持っている。
だが奇跡は誤解され、曖昧に捉えられ、その価値を理解されずにいる。
この世界で奇跡は、道理を超えた、つまり法則に反することだと思われている。
でも奇跡は、愛という絶対的な法則がもたらす、原則原理の結果に過ぎない。
自我の作ったこの世界と天国の法はこのように反転して見える。
私が神の道具として神に使われる時、私は神の全一さを持つものとなる。
そしてその全一さが、仲間と完全に共有できているのを感じる。
私が癒しを与えようとする時、私は神の全一さの一部であると感じ、仲間もそうであると認識できる。そして私は仲間から、全一さという神からの証を受け取る。
それが神の創造の延長である。
これが私が癒す仕事に感謝し、結果としてやり続けられているただひとつの理由だ。
天国はその彼方にある。しかし私が道具として奇跡を受け取るとき、天国は在ると確信ができるし、今がその天国であると言われればそれで充分だとも思える。
聖性とは、それ以上のなにも必要ないほどに満たしてくれるものだ。
天国は神の心の中だけにあり、私たちの心と心が離れているかに見えるこの世界であるがゆえに、その天国は心と心の間をつなぎ、その空間を埋めるように延長する。それが創造でなくて何だろう。
私たちの肉体の目的は赦ししかない。
赦されたその向こうに創造があるのではなく、赦しこそが創造なのだと真理は言う。
私たちが日々の時間の中にできることは、この創造のための神の神殿を、平安という聖水で清めて待つことだ。
そして一旦それを始めたのなら、この時間の中に起こるすべてを、その願いへの応えとして受け取ること。出会うすべてが導きだと信頼することだ。
そうすることで、神の道具としての準備が整う。
多くの人がその途中で迷うだろう。
待っても奇跡が来ないと感じることだろう。
内側を観る訓練は、ここでこそいきる。
長いこと間違いを裁くために見張っていた自分の内面を見る目を、信頼の視線に変えた時、神のやり方が目に入る。その時、これまで見逃してきた奇跡が連なって観えるだろう。
自我は咎めの対象に目を見張り、奇跡を素通りしている。
準備ができた時その逆転が起こる。
私たちが誤解し取り違えていたことがわかる。
それが世界の逆転を指すと言える。ひとつの現象も必要としない。
私たちはなにが良くてなにが悪くて喜びとはなんなのかを知らない。
神聖な喜びを知るまでは。神のやり方を理解するまでは。
だから聖霊の導きに従うことがその近道なのだ。
ということを私は遠回りしながら、何度も自分のやり方を優先しては行き止まり、迂回しながら、学んだ。
その幸せな訓練の果てに、私には神の道具として働く力があると知ることができた。
どうか私よりも仲間たちみんなが少しでも近道できますように。
そして地上に奇跡の花が咲き乱れ、神の心の写し絵のような幸せな幻想をこの世界に創造することができますように。