私たち人間には、真理が必要だと思う。
真理なしに人との公平なコミュニケーションはできない。
私のたった二人の家庭ひとつをとっても、真理なしに「壁」を取り払うことはできない。
愛を育み愛を育てるための最小単位のカップルでさえ、否、だからこそ。
真理のないものはすべて対立する。
この世のものはすべて対立によって成り立っている。
自我の知覚に培われた価値観と価値観の対立。
お茶碗のチョイス、箸の持ち方、それを子供にどう伝えるか。
人と人の間ではすべてが異なる。
そしてその差異がどこから来ているのかを知らない。
無意識に、自分の知っていることが正しいと信じて疑わない。
小さなことと思えば相手に譲るかもしれない。
(そこに小さな貸しを作りながら)
相手が譲ってくれるものは、相手にとって大事なものではないから、それは大事にされない。
大事なものが食い違う。
大事なものは譲り合えない。
受け入れたつもりなのに壁だけが分厚くなっていく。
壁越しの相手はもはやなにを共有しているのかもわからない。
借金と、住まいと、生活費?
お財布も分け、部屋も分け、残るのは過去に一緒に買ったものと楽しかった思い出くらいか。
そしてそんな事実からも目を背けて、別の何かで目をそらす。
別の楽しみで、別の攻撃可能ななにかで。
人はそれでも生きていくのか。
大変なのは貧困や災害や紛争に直面した人だけなのだろうか。
自分が選んだ人との間にさえ強固で変更不可能な壁を築いて、その被害者でいる人間が、どうやって幸せに生きればいいのだろう。
真理とはなにか。
それは、完全なものが存在しているという事実だと思う。
真理を選ぶとは、自分とその完全なものとの関係を見出すことだ。
そして見出したものを、すべての人の中に見ることだ。
人とのコミュニケーションとはそれのことだ。
人は長い歴史の中で、完全なものを外側に見出そうとしてきた。
そして自分自身のことも外側に置いた。
完全なものを自分で創り出し、その完全なものを目指した。
そのシステムそのものが自我だ。
そしてそもそもある完全なものを完全に見失い、或いは黙殺した。
目の前にいる愛しい人との間の見えない壁を作り出しているのはこの自我のシステムであり、そこにパワーはない。
私たちにある無限の可能性とは、永遠に肉体を生かすとか、他人にできないことをやってのけることではない。
私たちの内に、すべての人の内に必ずあって、つながり合える本来の力を思い出すことだ。
私たちにイメージできることは実現可能だ。
恐怖のイメージという壁を、可能というイメージに置き換える。
そのために、習慣となった無意識の恐怖に光を当てる。
光を当てるだけでいい。
そしてそれが本当に実在してほしいものかを心に問う。
真理は心にあるから、その問いには答えが来る。
この声に従った時、目の前の人の中に、同じ真理が見える。
それが愛なのだと思う。