みなさん、こんにちは。
ここ周辺で最も遅い岡谷の桜も時期を終えて、花桃ちゃんが花盛りを迎えています。
ここからは花盛りラッシュです。
本当にいいところなので、そのうちまとめてレポートを書きたいと思っています。
前回みなさんにお願いして無事開催できましたオンライン瞑想会ですが、明日21日㈰が開催日となっています。
瞑想と言えば世の中ではマインドフルネスが主流なのでしょうか。
ある時期からあっという間に広まった気がします。
最近のことのように思いますが、発祥は1960年代アメリカで、上座部仏教(ミャンマー、タイ、スリランカに現存する)からの使徒が伝えたものだそうです。
ということは、ヴィパサナ瞑想が由来です。
セッションを通して、「ヴィパサナ行ってきました。」「マインドフルネスやってます。」という声はたくさんうかがってきました。
でも自分はその頃には、SRF(パラマハンサ・ヨガナンダの協会)に出会ってクリアヨガを学び、瞑想していましたので、興味がわきませんでした。
とても満たされていて、まったく必要を感じなかったのです。
私が主催する瞑想会はクリヤヨガ(ヨガは瞑想を含む神との合一のための哲学です)は行っていませんが、(SRFから直接学ぶことがどなたにでもできます)真理の骨組みや取り組み方はヨガナンダさんの教えと奇跡講座に則っています。(非二元、一元論、ノンデュアリティ。)
お釈迦様の教えに厳密に則っているという上座部仏教の行法であるヴィパサナ瞑想と、一元論における瞑想はどこがどう違うのかな、ということを最近学んでいます。
私は自分のような、心の平安と真逆のはるか向こうからここまでを驚異的な最短距離でここまで来られたことが奇跡ちゅうの奇跡と認識していて、ぜひとも望んでおられるみなさんのお手伝いをしたいと切望しています。
最近一つ気づいたのは、上座部におけるヴィパサナとは、すでに仏門を選んだ人のための行法だということです。
つまり魂の目的を既に選んだという前提があるのです。
その前提なしに、またその道中の導きなしに幻想をはぎ取るというのは不可能だろうと私は思います。
それはヒプノセラピーで体験したことです。
潜在意識の浄化は最初は内外共にとても大きな変化をもたらしますが、重ねていくと停滞を迎えます。
どこまでやればいいの?癒しは終わらせられるの?という疑問はその途上に生まれます。
潜在意識は言わば自我を護る知恵の貯蔵庫ですから、ある程度身軽になったらそれ以上の浄化は自我が許しません。
私はクライアントさんから学ばせていただき、そういうからくりを理解しました。
そしてそれ以上進むためには、真我、つまり内なる神に介在してもらわなければならないと気づきました。
潜在意識は二元であり、負の側面だけを取り消すことは実は不可能です。
そしてそこを空にするのは、それに代わる護り手なしには不可能なのです。
その気づきがあってからは私のセッションへの説明も一変しました。
誘導の文言も一変しました。
自分で考えたのではなく瞬間の、それは導きでした。
降りてくる、というのはこういうことだと思います。
セラピーとは、治癒とは、癒しとは、変化とは、すべてが内なる神への道のりです。
真の癒し手は、肉体の治癒力などではなく、完全で神聖な心(意識エネルギー)なのです。
真の実在の介在なしには何も真実になりえません。
なんと呼んでもいいですが、「それ」を求めることなしに道具を使っても、どこにも行き着きません。
誰もが本当は神聖さの実在を求めているのではと感じています。
でも私たちは内ではなくどこかに、それを探しています。
もしそれが真の自己でないのなら、私たちが自我を手放すのはほとんど不可能ではないかと思います。
文章にするととてもややこしくもどかしいのですが、ともに瞑想したり、セッションで心をつなげてお話すると、言葉以上のなにかをすっと共有できてしまったりします。
多分、真理はそういう心の交流の中でしか分かち合えないし触ることができないものだと思っています。
ご一緒できることを楽しみにしています。
明日21日㈰午前10時開催の瞑想会はお席に余裕がございます。
本日20時まで、お申込みをお待ちしています。
感謝とともに
AZU拝