実のところ、聖霊を唯一無二の実在するエネルギーだと確信するようになったのは最近のことのように思う。
聖霊とは神の働きそのものであり、神と自我のすべてを知り尽くしていて、神へと還る私たちの道を真理によって完全に導いてくれる。
「聖霊にお願いしてください。聖霊にじゃないと、だめなんです」と
究極の意識の仕組みを学ぶ奇跡の講座で、ある方にお伝えした。
そんな言い方をしたことがなかったので自分でも少し意外だった。
「ほんとに?そんなこと言っちゃっていいの?」
という自分ツッコミの声をかすかに聞かなかったわけではない。
その直後その方は一瞥体験とも呼べるような、鮮烈な目覚めを体験された。
それは恐らく、神の計画の初めの一歩と言える。その方の願いが「悟りたい」という真理そのものを目的とする思いだったからこその、聖霊のすばやい最大限の応えだったと思える。
しかしその方だけはない。
この講座を始めて以来、私はすべての方に、聖霊からの直接のレッスンを受けていただくようお願いしていて、そしてそのレッスンは必ず、奇跡としか言いようのない速度と道のりで、つまり時間やつみ重ねというこの世のものさしを完全に取り外したようなていで、気づきと変容をもたらしてくれている。
だから私の役割は、その聖霊のレッスンをよく観察して分かち合うこと。
みなさんから差し出されるカリキュラムによく耳を傾けること。
それだけ。
つまり皆さんが自ら聖霊を体験していくことが講座の主軸となっており、実践によって書いてあることがどんどん理解できるようになっていかれる。
逆に聖霊を受け入れず内側からの導きに従わないうちは、読むことすら困難なテキストだと言えるはずだ。
ここまで来てふと振り返ると、わがサロンのRUACHという名前はヘブライ語の聖霊を表す言葉だ。
ルーア(小さいハがアの後に入る)は(玉川)大学時代に前島誠というとても素敵な司祭である先生が礼拝で教えてくれた言葉だ。
23歳の時に一度だけ書いた芝居の脚本でもこの言葉を使わせていただいた。
(教会が運営する孤児院の名前として。)
教えが欲しい時に本のページをぱっと開いてそのページに答えを求めるやり方、今で言えばオラクルを当時からよくやっていて、前島先生の著書「うしろ姿のイエス」でそれをやった時に出てきたのが礼拝の講話で知ったRUACHという言葉だった。
当時の自分は恐れと怒り、悲しみに満ちていた。
多くの人が神を信頼できないのは、祈りが届かないと感じるからではないだろうか。
しかし、恐れによって閉ざされた心には、聖霊の声をはっきり捉えることはなかなかできない。
それでも導きはあった。
「本当にピンチの時、最低ラインのところではいつも何かに助けられています」
というお話をよく耳にする。私もそうだった。
本当はそれ以外のすべてにおいて、助けられていないことなど無いのだけれど、恐れの中で必死に全力でしがみつきながらがんばる人には、聖霊の優しい無条件の救いは受け取れないものだ。なぜなら苦しむ人は、無条件の救いよりも復讐を望むからだ。今は本当にそれがわかる。
聖霊の導きを思う時にいつも思い出す光景がある。
2003年、私は歌を学ぶために、ひと月単身でニューヨークに滞在していた。
それまでにないような解放感と神聖さに包まれ、完全に今にいて、過不足のない自分を感じ、一瞬一瞬が綿密に導かれ、その導きに任せて未知の世界を体験した。
ひとつも計画することなしに、必要なことすべてに出会っていった。
アメリカで最も大きく美しいと言われるカトリック教会、セントパトリック大聖堂がある5番街。いつも大勢の人がひざまずき口づけと祈りを捧げている大聖堂のはす向かいに、セントトーマス教会という大きいけれどシンプルな教会がある。
ほとんど誰もいないのに、時間になると聖歌隊が現れてパイプオルガンの演奏で賛美歌の合唱がある。ただ神に捧げているような、そのための音楽。
ひとけないそこで遠慮がちにおどおどと祈り始めたとたん、突然嗚咽が始まり、とてもとても長い時間(に感じた)止まらなくなった。
嗚咽しながら、走馬灯というのはこれかという感じで人生の場面が展開していた。
その場面がなんと、すべてキリストと私の接点となる場面だった。
少し前にブログに書いた、高校生の頃神さまに見放されたと感じて号泣した、という場面も出てきた。それから大学に受かった時、合格通知を持って階段に座り込んだ自分の姿も見えた。
当初は特別な場面だとはまったく感じていなかった場面がたくさん並び、並べられてみてわかったのは、自分は見守られ、手を差し伸べられ、導かれていたということだった。「すべて、わたしがしたのだ」という声といえない声を聴いた。
一方で、こんなのはできすぎた話だと疑う意識も確かにあった。こういうことは妄信してはいけない。自分の思い込みや願望が見せている可能性が重々ある、と。
でもとにかく嗚咽は止まらず、ヒプノセラピーの誘導を受けて壮大なストーリーが内側で展開しているような体験をひとしきりした。
ニューヨークから東京に戻って3週間後くらいに、夫と出会った。
今世の前半までのまるごとカルマの浄化がキリストと聖霊によってなされたように思う。19年前ということになる。
こうして抜き書きすればそれはわかりやすいストーリーに見えるけれど、手探りの人生の途上ではあらゆる幻想がないまぜになっているのでどれが導きなのかもまったくわからない。
でもとにかく私は差し伸べられた手を掴んだ。その手をもう二度と離さないだろう。
私は聖霊の一部になりたい。
あらゆる幻想の壁をみごとにすり抜け誰の心にも光を灯し、求めの声を一つも聞き逃さず、求める心を決して裏切ることなく、最も崇高で神聖なものだけに導く完全な意識。
肉体にまつわる恐れの幻想をすべてを退け、父と子への完全な忠誠を捧げる聖霊の、その無限の光に溶けるひとつぶになりたい。
そのひとつぶに、もはや名前も、個別的な区別も必要ない。
それはただ、神に属するもの。
永遠で、無限で、完全なるものと一つであり一部でもあるもの。
かつて名前と姿を持った、或いはそもそも持たない永遠の命が、迷子の私たちを今も全力で導いている。だから、私たちはその愛に報いる。それを思い出すことによって。
しかし神はその子らのかつての名前と姿をすべて記憶している。
なぜならその子らは、神が創造した神の子だから。
私たちはそれを、思い出そうとしている。