タイトルはさておき、この動画、意識の仕組みとからだ(脳)についてわかりやすく説明されています。
これまで学んできたみなさんにとっては簡潔なまとめになっていると思います。
ただし、ただしです。
ここまでならいわゆる巷のスピリチュアルどまりです。
どこがかと言いますと
1、ゴールが自我の範疇にある。
2、ゆえに目的は「より良い自我」だということ。
3、であれば対処法はその目的に則したものである。
という点です。
これが、この世のジレンマに私たちを永遠につなぎとめることになります。
ゼロポイントフィールドという一元性の源にアクセスしておきながら、目的をより良い自我に置いてしまうというとても不条理なことになっています。
これが私たちの自我が望んでいることです。
つまり、この二元性の悪夢からなんとしても目覚めたくないのです。
二元性というのは、どこまで行ってもひとつのゴールはない、という意味を持ちます。
光には影が、表には裏が、善には悪が、幸運には不運が、得すれば損が、生きていれば死が、始まれば終わりが、もれなくついてきます。
それがこの世だよ、ということです。
で?だったらそれをどうするの?
どう生きれば私たちは幸せでいられるの?
そこへの答えがないなら、私たちは刹那に、一瞬の快楽に生きるしかなくなります。
例えば仏教なら、お釈迦様は二元性の世界に生まれ、その二元のジレンマから完全に自由になられた人とされています。
その方法は悟りです。
でも悟りは一般的に「特別な修行」の果てにある、とイメージされています。
凡夫には不可能だから、悟った人のご利益にあずかって謹んで生きる、みたいなイメージです。
つまり「部分的に」見習う、という感じです。
キリスト教にも同じような図式があります。
罪びとである私たちが特別な存在である神の子に倣って規律を守ることでご加護を受け取る、みたいなイメージです。
イメージと言っているのは、それが真の教えかどうかではなく、多くの方の心と向き合い、様々な信仰のある方と分かち合った中で皆さんが心にお持ちの傾向として私が感じたことだからです。
そういう既存の宗教へのカウンターカルチャーとして起こったニューエイジ思想では、神の子とは自分たちのことで、宗教に関わりなく神は一つであり、修行の果てに悟るのではなく、今ここにおいて可能なのでは、ということが根幹になっていると思います。
更に、「心は創造する」と言われるように、すべての物理現象の元となっているのは形ではなく意識で、外側に見えるものは実は内面の「投影」である、という見かたです。
ただそこから派生した現代スピリチュアル思想では、アミニズムやシャーマニズム、神智学、不二一元論(古くはヨガの中の一派。シャンカラが伝え、その流れをくむヨガナンダさんがアメリカにもたらした。また奇跡講座も同じ教え。)などがごっちゃになって伝えられているように見えます。
結局は神(唯一の目的)などない、あるのは私たち個別の自我(自由意志)だけだ、みたいな方向の思想も多々あります。
量子論という最新の物理科学とスピリチュアルで言われてきた法則は部分的に、しかしかなりの部分でシンクロしています。
投影の仕組みはほとんど一緒です。
動画は引き寄せるにはという観点で述べられていますが、アルファー派、ベータ派とは、要は瞑想状態の脳波の状態です。
ヒプノセラピーは、誘導によりアルファー派に導いた瞑想状態で、インナーチャイルドワーク、過去世ワークではこの状態で過去の記憶を呼び出し、ハイヤーセルフのワークでは過去ではなく「内なる高次元の意識」=聖霊を呼び出します。
レイキやその他のエネルギーワークもこの波動に共振させて、低次のエネルギーを排して癒します。
名前を変えても種類で分けても、結局それ以上の仕組みはないのです。
では何が重要なのか。
それが、ゴール(目的)の設定になります。
これはもちろんこの世的に言われている「目的意識」や「人生の目的」とは違っています。
この世とはなにかというと、「外側に展開している世界」のことです。
外側とは投影されているだけですから、それを幻想と呼ぶのは簡単なことです。
投影の元となるアイディア、つまり外のスクリーンに映っている映像の原型はフィルムに刻まれている絵=記憶と言うことになります。
しかしこの記憶というのも、実在ではありません。
それは過ぎ去った過去について、その場の良し悪しの判断をつけて保存しているだけです。
つまり投影というのはその元のフィルムもスクリーンの映像も、まったくの幻想だということなのです。
この世での目的とは要は「気に入る映像を見る」ことです。
気に入らない映像を見たらフィルムを取り換えるというのが、この世的な方法です。
でもフィルム自体が幻想なのですから、幻想を幻想に取り替えるのがこの世の目的だということです。
言い換えれば、自我をより良い自我に取り替えること、となります。
スピリチュアルと言いながら、この世の範疇を出ていません。
これをやっている限り、私たちはこの世のジレンマから自由になれません。
そして自我は、実は自由になることを求めていません。
対極の勝者側になることを目的としています。
しかしジレンマというゲームに勝者はありません。
たまたまかわりばんこにどちらかを演じているだけです。
私たちの魂の本当の勝利とは、このゲームを降りることです。
心の中にある映写機のフィルムに刻まれた過去を透明にしていくことです。
しまいにはフィルムを外してしまうことです。
そうするとそこは、光だけになります。
これがキリスト教で言えば分離する以前の天国であり、奇跡講座で言えば創造されたままの自己であり、仏性そのものであると言えます。
あらゆる事象と生きとし生けるものの背後にある神であり、ひとつしかない唯一の神です。
それをゴールとするかどうか、だけに意味があります。
そう言われると自我はとたんに動揺します。
自我は神に変わって自分が創造しようとしています。
その目的は個別であり、自我はみんな特殊です。
そこに自我の魅惑があります。
それはすべての人に価値があるという意味を歪曲し、あるがままであるという意味を歪曲しています。
なにを真実と見なすかによって、すべてが逆転してしまいます。
自我には目的はありません。ただ生き抜こうとし、ある時死にます。
そして、その無念のバトンを渡します。
それがカルマであり因果の法ですが、これはこの世の幻想を支えるための法則です。
それは神(愛)の法則とは全く相いれないものです。
本当の目的は、不変の、完全な、ひとつを自己の内に見出すことです。
その目的を選んだ時、私たちの内にある真実は真実として発動します。
この世を構成する「ひも」と波動は、それに共振し共鳴し始め、幻想は自我の求める価値を失い、本当の無へと返っていきます。
その選択の元に、この世は過去の投影ではない真の姿、つまり実相を映し出します。
私たちは実相を共有し分かち合い、延長していきます。
その時この世は天国には程遠いけれど、それでも天国の光を反射し映し出しています。
私たちは真の自己の光が映し出すこの世で、しばしの時間を過ごし、やがて天国へと溶けていきます。
7月19日㈬11時からの定期瞑想会はお席充分にございます。
ご参加をお待ちしています。
感謝とともに
AZU拝