みなさん、こんにちは。いかがお過ごしですか?
ここ長野県岡谷市は、今週急に寒くなりました。
夏から冬になったり、春のようだったりこれぞ秋、だったり。
それ全部がなんと清々しいこと。
澄み切った空気。
八ヶ岳も山々も、完全にその装いを変えました。
沖縄といい、長野といい、美しいってなんてすごいこと。……
でも、それでも私は思うんです。
形には意味はない。意味があるのは心、と。
今も時々思い出します。
高校生の頃、本当に苦しかった時、多摩川土手に咲きみだれる桜が大嫌いだったこと。
なぜ人は桜がきれいというくらいで、あんなに浮かれていられるんだろう。
苦しい人がこの世界にはたくさんいるというのに、と、苦々しい気持ちでした。
心が苦しいと、美しいものが美しく感じないのです。
ただ感じないだけではありません。
それを攻撃に感じてしまうのです。
きれいなものをきれいだと感じられないお前の心は汚れているに違いない。
みんなが喜んでいるのに喜べないお前の心は歪んでいるに違いない、と。
桜が圧倒的に美しければ美しいほど、圧倒多数から攻撃されているようでした。
それが今ではきれいきれいとわーわー喜んでいます。
ですから景色が美しいのではないのです。
私たちの心が美しさを選ぶから、景色が美しいと認識されるのです。
それを攻撃と見なせばそれは攻撃と認識されます。
全ては、心であり、選択なのです。
実のところ心に少しでもつっかえているものがあれば、
喜ぶことも感謝することも愛することもできません。
その時私たちは恐れているからです。
恐れるから、攻撃と受け取り、防御しなければならなくなります。
同時に愛をも防御してしまうのです。
私たちはどんなに恵まれていても恐れます。
少し先の未来を。
その先の結果を。
そして過去の出来事にまつわる自分と他人に罪を感じています。
ですから今に居ません。
罪意識に追われ、未来に対して構えているからです。
そうでない人は、いないでしょう。
真理とひとつになった人以外は。
みんな、なんとかやり過ごしています。
ポジティブな、幸運な、目新しい出来事に目を向け、
それがいいことだと信じながら。
やり過ごしせている人の邪魔をしたいのではありません。
でも、うまくやり過ごせない人がいたのなら、
どうぞ、それを異常だと思わないでください。
劣っていると思わないでください。
うまくやり過ごせない、というのは
「おかしいな」
と感じているということです。
なんか、おかしい。
自然じゃない。
つっかえてる。
正しさや、良きことや、親切や、美しいことが、普通に通らない。
そこに釈然としない何かを感知しているのです。
違和感と言ってもいいかもしれません。
苦しい過去から私を救ってくれたのは、
そういうものを極度に敏感に感じ取る機能でした。
同時に過去の私を苦しめていたのもその機能でした。
「敏感さ」は今や生きづらさの代名詞のように言われています。
でももし、私たちすべての人の本当の目的が「愛」なのであれば、
それは、愛を感知するためのすばらしい機能ということになります。
そして愛以外の、恐れが発するあらゆる違和感に気づくための機能になります。
愛以外の目的のためにこの世で当たり前に行使されているあらゆる欺瞞を、
察知することができます。
ここでの問題は
「気づいたところでどうにもできない」
ということです。
気づいてしまったところでそれに対する対処がなかったり、
あまりに実現不可能な方法しかないのであれば、
「見なかったことにして、忘れてしまった方がいい」
と誰もが思うでしょう。
そうなると、「敏感さ」はやはり、ただただ不便で非実用的で、
不幸の元凶にしかなりません。
世の中でも「その敏感さを直す」ためとか
「敏感でも人に嫌われないようにする」方法とか、
それはもう、忌み嫌われるという前提で取り扱われているのがわかります。
そして日頃から生きづらいなあと感じてた人は
そういう宣伝に飛びついてしまいます。
生きづらい人は、周囲に合わせられないから生きづらいのですが、
だからこそ余計に周囲に合わせようとしています。
そうして自分がなんなのか、わからなくなっています。
そうすると今度は、好きなことを見つけようという方向に行きますが、
欲求や願望を探したところで自分は見つかりません。
欲求や願望は真の自己ではないからです。
見つけたいのは真の自己です。
それはすべての人の課題です。
敏感な人だけの課題ではありません。
ですから、敏感でこの世が生きづらい。
なんだか、おかしい、おかしいのが自分なのかみんななのか、
自分の家族なのかはよくわからないけど、と、気づいたら、
それは一歩進んだことになります。
この世はおかしくて当たり前なのです。
この世界はどこをどうとっても、どこまで行っても、矛盾しています。
だから、おかしい世界に自分を合わせて、
その中でなんとか円満なふりをして生きなくていいし、
おかしい世の中を自分で正さなくてもいいのです。
おかしい世界はそっとしておいて、自分は、本物を見つけるのです。
本物が、すべてを訂正し、修正してくれます。
自分を訂正し、修正することを受け入れて慣れていけば、
それがあなたの世界の周辺に拡大していくのを体験できます。
本物というのは内側にあるもので、本当はすべての人のうちに備わっています。
ですから、みんながやるべきは
自分にその内なる正しいものからの訂正と修正を受け入れることです。
内なる本物の自己を、私は神と呼んでいます。
やってみたいと思ったら、その本物は直ちにあなたを導いてくれると思います。
お手伝いが必要な時は声をかけてくださいね。
感謝とともに
AZU