この世界には魅力的なものがたくさんあるかに見えます。
自然だったり、科学だったり、歴史だったり、
技術だったり芸術だったり。
けれど、美しいと感じたものが一斉に色あせて見えたり、
逆にすべてが輝いて見えたり。
そういう体験を多くの人がしているのではないでしょうか。
私は高校生の頃、桜が嫌いでした。
それも、恐怖に追い立てられていたたまれない、というくらいに。
今はきれいだとしか思えませんが。
この間にある違いはなんでしょう。
高校生の頃は病んでいて今が正常、と言われればそれまでですが(笑)
ではなぜ人は病み、そして治るのでしょう。
あの人の見ている青と、私の見ているそれは
まったく同色なのでしょうか。
それが違うと、病気となるのでしょうか。
超敏感な人々と普通の人との間に、
発達障害な人と正常な人との間に、
なにがあるのでしょう。
こんなことを考えていると、結局人間てなに?と思えてきます。
そして、集団の中で、結局人間てなに?などと考えていると、
みんなが楽しんでいても楽しめないし、孤独です。
人生の早い時期で、
「だから楽しんでいるふりをする」
という対処を覚えるこどもはたくさんいると思います。
「でもそれ、どうしても楽しくないんだ」
というこどもを身近な人がどう見なすかで
そのこどもの自己認識はある程度決まってきます。
私たちは、周囲からどう見なされるかで自分を認識するからです。
けれどそれも、掘り下げればわかりますが
このように見なされていると認識しているのは自分です。
それを自分だと受け入れているのも自分です。
つまりは自分がこの世をそのように創っています。
この、思うようにならない世界を創っているのは
自分だということになります。
探究すべきはそこにある無自覚さであり、
無意識を意識化することが学びであるとも言えます。
「でもそれ、どうしても楽しくないんだ。
で、これが楽しいからそうするよ」
というふうに生きられる人はごく稀です。
ましてそれがずっと続くということは「無い」と言えるでしょう。
楽しく思えない世界を無理に楽しもうとしている間は
桜は脅迫的な狂気です。
もっと楽しいふりをしろと迫り、
脱落する恐怖を突き付けてきます。
世界がパンデミックに見舞われ、
刻々と時間が過ぎていきます。
なにがどうであれ、
生きている限り、人は慣れます。
慣れたことを人は
「これが普通」「これが常識」
と認識します。
それを超えたものを
異常とみなします。
そこに絶対的な基準はありません。
ですが私たちはいつも
絶対的な基準を探しています。
他者(周囲)に対して異常を感じた時、
自分が絶対的な正常基準内にいることを確認します。
安全確認をしたいからです。
かくして私たちは、
なるべく安全地帯の真ん中のほうに寄りたくなるのです。
その基準が無いとわかっていても。
アダルトチルドレン(役割不全家族に育ったこども)が、
或いはHSP(超敏感な人)が、
肌感覚による安全基準を持たないために
社会的正義に固執するようになる傾向も
こういうからくりによるものです。
あまりに安全基準値から離れてしまうと今度は
注目され承認されることで特別な安全基準を得ようとします。
でもこれはうまくいきません。
常に特別枠を安定させておくこと自体がさらに至難の業だからです。
みんな安全安心が欲しいのです。
そしてその確かさの基準を自分なりに探すのです。
しかし傾向というのは
つまりはなにかに比べてこっち寄りなだけです。
なにと比べるかと言えば、より真ん中よりな人と比べているだけです。
その真ん中に価値はありません。
なぜならそれは、慣れなのですから。
世の中の自己探求とか自己表現というものは
だいたいこんなことをやっています。
「自分を探す」とか「自分と向き合う」
という言葉で表現されているものの中身は
こういう曖昧な基準と自分を比較して
自分を認定することで
自分なりの安全地帯を築いた気になる
という程度のものでしかありません。
しかしそうではない、
ほんものの自己探求や
自分との向き合い方は存在しています。
言葉にすると同じになってしまうので
とても厄介ですが。
ほんもののほうは自分とすべての人を幸せにします。
ほんものとまやかしが同じ言葉で語られ
同じ土俵で取り扱われていることの問題は
ほんもののほうも価値がないものとして
誤ってゴミ箱に捨てられてしまう危険があるということです。
ほんものが存在している、と言えるのは
私たちに「本質というものがある」と言えるからです。
本質というのは傾向ではありません。
普遍的であるということです。
普遍性は、社会で軽んじられたり忘れられることはあっても
消えてしまうことはありません。
むしろそれだけが全存在を背負って不動です。
ですから私たちが本質に立ち返ろうとさえ意図すれば
そこに必ず在ってみつかるものです。
ただ、慣れという不安定な価値基準に自分を照らし
移り行く安全基準を追いかけ
自己認識をそこに求めている間は
それは目に入らないのです。
桜は
多数に愛されることに価値があるのでもなく
万人が称賛するから美しいのでもなく
桜は
世を照らす光を浴びて
それをあるがままに反射するからきれいです。
世を照らす光は、私の内側に在ります。
私は世界をそのように照らし、
そしてそのように見ています。
それは桜にとどまらず、
全世界に延長しています。
真の自己は今ここにあります。
■各種セッション・講座を通して本質に還る道のお手伝いをさせていただいています。
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